By whenis , 17 8月, 2016

汪曾祺は(1920-1997)中国の「新筆記小説」の作家です。

1920年、江蘇省高郵県生まれ。西南聯合大学中国文学部卒業。大学時代には、著名な作家、沈従文に師事し、1940年には、初めて作品を発表しました。かつては昆明、上海で中学校の教師をしていたこともあります。その後、北京市文聯、中国民間文芸研究会で仕事をし、「説説唱唱」や「民間文学」の編集に携わりました。

そして1962年から、北京京劇院で劇作家を務めました。彼が書くもののほとんどは短編小説です。彼は、短編小説という形式がとても気に入っていて、今のところ、長編や中編の小説は発表したことがありません。また散文や評論(文学や戯曲、民間文学に関するもの)も書きます。

若いころには詩を書いたこともあります。しかし京劇の台本を書くのが彼の本職です。中国古代作家の中で、彼は明代の帰有光が好きで、中国現代作家の中では、魯迅と沈従文の影響を深く受けています。

小説の創作理念について、彼は次のように述べています。

「私が小説の中で描く人物は、一般の人である。ほとんどは、私のよく知っている人である。英雄を書いた小説もあるが、私はその英雄を普通の一人の人間として描いた。私はごく普通の人の身の上に、人間の詩趣や美しさが表れるものと思っている。

By whenis , 15 8月, 2016

海岩は中国の現代作家です。1954年北京に生まれ。「刑事もの」を得意しています。中国都市部では、「海岩の名を知らぬものはいない」というほどの人気作家です。1985年から2006年まで、10篇の長編小説を発表し、いずれもドラマ化されました。小説・ドラマともに大ヒットしており、中国大陸の作家としては、トップクラスのヒットメーカーといえます。ところが、実は彼の本業は"ホテル経営"で、小説はあくまで副業。仕事が終わった夜中などに作品を書いているそうです。

彼の作品がなぜそれほど人気があるのか?理由の一つに、その多彩な経歴が生み出した「リアリティの高さ」にあります。 

By whenis , 14 8月, 2016

曾国藩(1811ー1872)は、中国歴史上最も影響力のある人物の一人です。彼は湖南省のある辺鄙な村から読書人の身分で上京し、科挙の試験に合格した後、官吏として採用され、37歳の若さで正2位までに出世しました。

1851年、洪秀全・楊秀清らが蜂起し、1853年には南京を攻めて政権を作りました。「土地の平均化」や「男女の平等」など民主的権利を求めたこの「太平天国蜂起」は中国史上最大の農民革命政権であると言われています。 曾国藩はこの蜂起を鎮圧するため、「湘軍」を創設して十数年かけてやっと「太平天国」を静めました。清王朝の天下を守るため、「両江総督」(今の江蘇、安徽、江西省)、「直隷総督」(今の河北省、天津市及び内蒙古自治区の一部分)などを歴任して、正1位に上りました。

曾国藩の時代は清王朝が繁栄から衰弱へと向かっている時期でした。「同治中興」という局面の中の曾国藩はこの過渡期の核心的な人物で、政治や軍事、文化、経済などの多くの面で大きな影響を及ぼし、その影響力が今日でも続けています。そのため、彼は中国近代史上最も議論されている人物にもなっています。

By whenis , 13 8月, 2016

侯宝林は、1917年天津で生まれた中国漫才史上の巨匠です。

実家は暮らしに困っていたため、四歳の時に彼は叔父さんに連れられて、北京の侯家に引き取られました。継父は貝勒の屋敷でコックをしていましたが、貧乏な家でした。このため、侯宝林は幼い頃から、生活の厳しさを十分味わっていました。1929年、十一歳の侯宝林は閻沢甫先生の弟子になり、京劇の勉強を始めました。十二歳の時、漫才に興味を抱いていた侯宝林は、常宝臣先生、朱闊泉先生の弟子になって、漫才の勉強をしながら、北京の天橋や鼓楼の辺りの露店で漫才の公演をしていました。当時、伝統的に、伝統演劇の「トリ」をとるのは「太鼓」と決まっていましたが、努力の末、侯宝林の漫才はやっと伝統演劇の「トリ」をとることができるようになり、漫才界にも大いに面目を施したということです。その後、侯宝林は同じ漫才師ー郭啓儒とパートナーになり、当時の漫才の俗っぽさを排し、素朴ながら雅びな趣きのあるスタイルで評判となりました。侯宝林は伝統漫才を演じる一方、現実生活を反映する新しい漫才を数多く創作しました。

By whenis , 3 7月, 2016

二胡の曲と言えば、沢山の人にとって、すぐに思い出されるのは「二泉映月」に違いないでしょう。けれど、どれくらいの人がこの名曲の作者が誰かということを知っていますか、そして、この人は一体どんな環境で「二泉映月」を創作したのでしょうか。

では、ここで、この作者についてお話しましょう。

阿炳、元名は華彦鈞、1893年江蘇省無錫で生まれた民間音楽家です。父親の華清和は町中にある「三清殿道観雷尊殿」の主な道士であり、道教の音楽が得意でした。阿炳(華彦鈞)の幼い頃に、母親が死に、叔母さんに育てられて、八歳から父のもとで小道士になりました。私塾で三年ぐらい勉強し、父に鼓、笛、二胡や琵琶などの楽器を教わり、12歳で色々な楽器ができて、しょっちゅう道観のイベントに参加させられました。彼は骨身を惜しまずに広範な民間音楽のメロディーを摂取し、道教音楽の枠を超えて、十八歳の時無錫道教音楽界で「演奏名手」と呼ばれていました。

By whenis , 2 7月, 2016

掐尖」はそもそも農業用語で、「摘芽(てきが)する」こと意味。つまり、よい花や実をとるために、果樹などの芽を摘み取ることである。

中国では、今、大学が入試試験でトップになった人を奪い合う現象がある。共通試験で優秀な成績の学生は、学校を選べるので、このつまり、優秀な人材を自分の大学に来てもらおうとすること。そのために、受験生に特典を与える大学も少なくないさそうだ。この現象を中国では、「掐尖」と言う。

「掐尖」にはもう1つの意味もがある。(優れた人や出過ぎた人を)「押さえつける」、「足を引っ張る」ことも「掐尖」という。

By whenis , 1 7月, 2016

意味

① 指定された番号の座席につく。指定席に座る。

② 関連する人物や物事を自分に結び付ける。関連付ける。

使い方

这次演出是对号入座的。

今回の公演は全部指定席です。

自由席是不对号入座的。

自由席というのは座席を指定しないという意味です。

故事看过就好,不要对号入座。

物語は読んだら、それでいい。自分と結びつけないで。

By whenis , 29 6月, 2016

实力打脸(shí lì dǎ liǎn)

意味

「实力」は実力、事実

「打脸」は恥をかく 恥をかかせる

「实力打脸」で実力或いは事実で相手に恥をかかせる

或いは実力や事実によって恥をかく。

使い方

考试成绩完全实力打脸。

試験の成績は完全に恥をかかせるものだ。

=出来が悪かった

By whenis , 28 6月, 2016

老腔(lǎo qiāng)

中国西北地区の古い芸能「皮影(影絵)」を上演する時、その物語の内容を「活動弁士」のように台詞や解説を歌うことから、この地区では影絵劇のことを「老腔戏」と呼ぶ。この「老腔」は中国第1陣の国家レベル無形文化遺産として登録されている。

今年の「高考(gāo kǎo)」、北京の大学入試試験の作文のテーマは2つあり、1つは「老腔」で、もう1つは「しおり」。これについて、一部保護者は「老腔」は難しすぎると主張するが、しおりのほうが作文を展開するにはもっと難しいような気がする。

By whenis , 26 6月, 2016

作者、王維は盛唐の詩人。現在の山西省の人。詩だけでなく画、書、音楽にも長けていました。31歳の時に長安の東南約50キロの山奥にある「輞川荘」という別荘を購入します。そこで、友人の裴迪(はいてき)と別荘内の景勝を詠んだ詩が『輞川集』(もうせんしゅう)と言う名前で、まとめられています。今日の詩は、その別荘のほぼ中央にある欹湖(いこ)の岸辺の水の上に建っている建物「臨湖亭」が、詩のタイトルです。軽舸は船のことで、船でお客さんを臨湖亭に招いたようです。上客、大切なお客さんなのでしょう。軒は日本語なら軒(のき)ですが、ここでは、窓の手すり。お客さんをお酒でもてなす。湖上にある臨湖亭から周りを見回すと四面、つまり辺り一面、芙蓉が開いていると詠っています。当時、芙蓉は蓮の花を指しました。大切なというか、大好きな人をお客さんとして迎えて、湖上でお酒を楽しむ。辺りは満開の蓮の花。湖を渡る涼やかな風と、王維のうれしい気持ちが伝わってきます。