By whenis , 20 11月, 2016

1923年、アメリカのハーバード大学に留学。1926年に帰国し、南京の東南大学で教鞭を執りました。そして翌年、上海で新聞「時事新報」文芸欄の編集に携わる傍ら、張禹九と共に雑誌「苦茶」を創刊しました。

 彼はロマンチシズムに憧れ、この面の詩作を数多く発表しました。ハーバード大学では新人文主義を提唱するバビッド教授の影響を強く受けました。代表的な論文は「現代中国文学のロマンチシズムの趨勢」です。この論文は1926年「晨報副鐫」で発表され、中国の新文学について「ロマンチシズムの混乱現象が起きており、理性に基づいて、また、普遍的な人間性から出発し、文学を作るべきだ」と主張しました。1930年、楊振声の招きに応じて、青島大学へ赴き、外国学部主任に就任。そして1934年、再び北京に戻り、北京大学の教授兼外語学部主任、1938年には国民参政会の参政員となりました。また重慶編訳館では翻訳委員会のほか、教科書編集委員会常務委員の仕事を担当するようになりました。1949年、台湾に移り、台湾師範大学英語学部の教授となりました。

 梁実秋は40歳を過ぎてから、主に翻訳や散文の創作に力を注ぎました。代表的な散文作品は「雅舎小品」です。また、1930年代から、シェイクスピア作品の翻訳を開始し、40年かけて、シェイクスピア全集の翻訳を完成させました。

By whenis , 19 11月, 2016

1925年、清華大学国語学部の教授となり、文学研究に携わる傍ら、散文の創作も本格的に始まりました。1928年、初めての散文集「背影」が出版されました。自らの目で見たことや心で感じたことが描かれ、その繊細さと素朴さで読者に多くの感動を与えました。特にその中の文章の一つ、「背影」は、家庭内に不幸な異変が起きたとき、その父親が駅のホームまで息子を見送る様子が見事に描かれており、散文の傑作として、数十年の間、国語の教科書に取り上げられてきました。

 1931年8月、イギリスに留学。言語学とイギリス文学を学びました。その後、欧州5ヶ国を訪問、1932年7月帰国して清華大学国語学部の学部長となりました。そして、1934年に、「欧遊雑記」、1943年に、「ロンドン雑記」を発表。いずれも印象的な手法で著したものでした。   

1948年8月病死。享年51歳でした。

 朱自清はその生涯で、二百万字あまり、30近くの作品を書き上げました。その大部分が開明書店出版の「朱自清文集」に収録されています。

抗日戦争勃発後、清華大学と共に南の長沙に移り、1938年3月、また昆明に移動、西南連合大学国語学部の部長を務めました。

By whenis , 18 11月, 2016

1924年「世界晩報」夕刊・「夜光」の編集長となり、以来、数多くの恋愛小説を発表しました。代表作は「春明外史」、「金粉世家」、「啼笑姻縁」などです。1924年から1939年までの5年間、彼は絶頂期を迎え、「鴛鴦蝴蝶派」の代表的作家の一人となりました。

 「鴛鴦蝴蝶派」とは中華民国初期から五四運動時期にかけて活躍した通俗文学のグループです。才子佳人の恋愛物語が多く、文豪・魯迅が「佳人が才子に恋をして、別れがたく、柳や花の下にいる一対の蝴蝶か鴛鴦のようだ」と評したことから「鴛鴦蝴蝶派」と称せられるようになりました。また小市民的趣味に迎合しているなどの評価もありました。1914年から1923年にかけて発行された週刊紙『土曜日』は影響力が大きく、それによって「土曜日派」とも呼ばれました。

 1935年、上海に移住し、「立報」の夕刊「花果山」の編集長となりました。抗日戦争勃発後、重慶に移り、その頃「新民報」に多くの文章を寄せるほか、多くの小説や散文を発表しました。1946年、新聞「新民報」北京支社の総経理兼夕刊・「北海」の編集長となりました。1948年「新民報」の仕事をやめ、新中国成立後は中国作家協会の理事となりました。

By whenis , 17 11月, 2016

30年代は詩歌の創作に従事し、新月派のメンバーの一人として活躍しました。彼女が作った詩「笑」、「深夜聞こえる音楽」、「ある夏の夜、山で」、「なくしてはならぬ」などは、緻密な描写、韻律の重視、音楽性に富んだ作風などが特徴です。短編小説「九十九度中」は、真夏の酷暑のなかで繰り広げられる北平(今の北京)での上流社会と下層の労働者の全く異なった生活を描きました。その対比が非常に鮮明で、かつ新しい手法が高い評価を受けました。

当時、北京東城総布胡同に住んでいた頃の彼女の家の応接間は"太太サロン"と呼ばれていました。当時の文壇の朱光潜、梁宗岱、金岳霖、沈従文、蕭乾などの有名人がここに集まり、お茶とお菓子などで、文学を談じ、芸術を論じ、古今東西の四方山話に花を咲かせていました。 そして"太太サロン"の主役はやはり林徽因でした。

新中国成立後、彼女は清華大学建築系の教授となりました。1949年以降、林徽因は中国国章のデザインや伝統的な七宝焼き模様の改革、それに、天安門広場にある人民英雄記念碑の設計にも参与しました。1955年病気で亡くなり、51歳でした。

By whenis , 16 11月, 2016

第一次国内戦争が失敗したあと、彼は徐々に消極的になり、部屋に閉じこもって本を読むことを提唱しました。30年代には、ユーモアに富んだ随筆的なものに興味を示し、40年代には、その風格はまた大きく変わり、渋くまた、退廃的なものとなりました。

抗日戦争勃発後、彼は日本軍政府政権下の南京国民政府委員や華北政務委員会常務委?兼教育総署督弁等の職を歴任。1945年には祖国を裏切る罪でつかまり、1949年に釈放され、北京に定住して、人民出版社で日本やギリシャなどの文学作品の翻訳や兄の魯迅の回想録の仕事に従事するようになりました。

「五・四運動」以降、周作人は週刊誌・「語?」の編集長として、風格異なる大量の散文を書きあげ、?平伯、廃名などの作家と共に、一つの流派となりました。 

By whenis , 15 11月, 2016

1949年以降、中国文物局局長、考古研究所所長、文学研究所所長、文化省次官、中国民間研究会副主席などを歴任。政治活動に携わった10年間、何度も代表団を率いて外国を訪問。1951年には、中国文化芸術代表団を率いてインドとミャンマーを訪問しました。そして1958年10月17日、アフガニスタンなどを訪問中、飛行機の墜落事故で亡くなりました。主な著作は短篇小説集「家庭の物語」、「桂公塘」、散文集「山中雑記」などです。

By whenis , 14 11月, 2016

1901年に、上海で蔡培元らと共に「外交報」を創刊し、1902年に、夏瑞芳の招請で「商務印書館」に務め、翻訳所所長、経理、監修、社長などを歴任。「商務印書館」に入った当初、「最新教科書」の編集を担当しました。その教科書には「教養、国語、算数」などでした。それ以降、海外の先進的な学術思想や文学を紹介する書籍をたくさん出版しました。また、張元済は目次学、校閲学に詳しく、「四部叢書」と「二十四史」など大型古代書籍を出版し、その学術価値は各方面から好評を博しました。張元済は「教育の発達」を商務印書館の経営方針としているので、数十年間、格調の低い出版物を一冊も出さなかったのです。また、彼が開設した商務翻訳所の資料室・「涵芬楼」は1926年に東方図書館として拡大され、また一般公開しました。そこに古代書籍、地方の正式な歴史書及び様々な図書が所蔵されており、豊富さから見れば、当時の私立図書館でトップとなっています。

新中国成立後、第一期全国政治協商会議の議員、第1期と第2期全国人民代表大会の代表、上海市文史研究館館長などを歴任。1959年8月病気で上海で亡くなり、享年93歳でした。

張元済(1867ー1959)は近代中国の出版家です。出身は浙江海塩で、1867年10月広東省広州に生まれました。

By whenis , 11 11月, 2016

新中国成立後、中央人民政府委員兼政務院財政委員会の副主任委員、華東軍政委員会の副主席、浙江大学、北京大学の学長、中国科学院哲学社会科学部の委員を歴任。50年代、計画出産政策を実施し、人口の素質の高めるのを中心とする「新人口論」と総合的かつ比率均衡で経済を発展させる理論を発表して、批判されました。そして、1960年、北京大学学長を辞めました。1979年に、名誉が回復され、北京大学名誉学長、中国人口学会名誉会長となりました。主な著作は「馬寅初講演集」、「馬寅初経済論文集」、「経済学概論」、「戦時経済論文集」、「新人口論」などです。

1916年以降は、北京大学の教授、教務長を歴任。「五・四運動」に参加しました。

その後、浙江振興銀行や中国銀行の顧問を兼任。1927年、浙江省政府委員、国民党政府立法院委員、立法院経済委員会委員長、財政委員会委員長、中央大学、交通大学教授となりました。抗日戦争期間中、重慶大学教授兼商学院の院長を担当し、国民党の経済政策を批判したことで監禁されました。抗日戦争の勝利後、中華商工専門学校の教師として、愛国の民主運動に参加しました。 

By whenis , 8 11月, 2016

蔡元培は20世紀初期の中国資本主義教育制度の創設者です。彼は国民教育や実利主義教育を急務とし、道徳教育を中心とする資産階級の新しい教育体制を初歩的に作りました。北京大学の学長を担任した期間、学術の自由や「科学と民主」を主張しました。

By whenis , 1 10月, 2016

1928年から日本に住み、中国古代史と古文字学の研究に打ち込みつつ、若者達の日本留学と中国文芸界の革命文学活動を積極的に支持。抗日戦争勃発後は中国に帰り、"抗日救亡運動"に加わりました。中国共産党の指導の下で《救亡日報》を編集し、その間、軍事委員会政治部第三庁長、文化工作委員会主任を歴任しました。そして国民党統治区の進歩文化人と団結して、抗日宣伝工作を展開しました。この時期、多くの史劇と詩を著し、国民党統治の暗黒面を明るみにして、人民を励ましました。

抗日戦争勝利後は、民主運動の最前線に立ち、国民党と真っ向から対立する闘争へと進みました。1948年東北解放区に赴き、その後、1949年2月に北京へ。

新中国建国後、継続して著作に従事し、多くの詩、歴史、考古著作を発表しました。同時に政府や科学文化教育、国際交流等において、指導的立場を担い、中央人民政府委員、政務院副総理兼文化教育委員会主任、中国科学院院長、中国科学院哲学社会科学部主任、歴史研究所第一所所長、中国科技大学校長等の職を歴任。さらに、中共九,十、十一期中央委員、第一期から第五期までの全国人大副委員長、第二,三,五期全国政協副主席に選ばれました。