By whenis , 15 12月, 2016

1902年社会学の先駆者である章太炎は日本の社会学学者・本能武太の著作「社会学」を中国語に翻訳し、これは中国で翻訳出版した最初の社会学著作です。この訳本と彼の考え方は社会学が中国での広がりに対して大きな役割を果たしました。1935年章太炎は蘇州で「章氏国学講習会」を開き、古代文学の研究に没頭でした。彼は特に「春秋」という経学に興味を示し、10年かけてそれを研究し続けていたということです。彼の一生には「古文尚書拾遺」、「春秋左伝読叙録」、「春秋左氏義問題」、「劉子政左氏説」、「太炎文録」など多くの著作を書き、後世に編纂したのは『章氏叢書』などがあります。1936年蘇州で亡くなり、67歳でした。

 今、浙江省の杭州では彼を記念する「章太炎博物館」があり、彼の原稿や写真などが展示され、資料が一番そろっているところです。

By whenis , 13 12月, 2016

「彼は正確かつ素朴、総合的に中国の伝統的な哲学思想を解明した中国哲学史上,大きな功績を残した"集大成者"である。西洋の現代ロジックと理性主義で中国の伝統的哲学を改造し、中国哲学史という領域を創設し、「新理学」という新しい体系を確立した。彼は中国哲学とは何たるかを人々に知ってもらうと共に、中国の伝統哲学を現代的に発展させる方向性と方法論を示した。彼の研究成果は後世の学者が中国の伝統的な哲学を理解する上での基礎を築き、また、外国の人々に中国の哲学や文化を理解してもらうことに、大きく寄与した」

去年、北京大学、中国社会科学院、清華大学などの共催で「馮友蘭生誕110周年記念及び馮友蘭国際学術シンポジウム」が北京で開かれました。出席者は彼の近現代学術史上における地位について、次のように評価しています。  

By whenis , 10 12月, 2016

1936年、国際ペンクラブの総会がイギリスのロンドンで開かれ、中国代表も招請を受けました。中国政府は新文学の代表・胡適と旧文学の代表・陳三立の2人を派遣しましたが、陳三立はその年、既に84歳。健康上の理由で、結局、出席することが出来なくなりました。

 1937年、「芦溝橋事変」が勃発。抗日戦争が全面的に始まりました。陳三立は日本侵略軍に妥協しない姿勢を見せ、絶食を実行。その5日後、亡くなりました。

「戊戍政変」失敗の後、陳三立とその父、陳宝箴が維新派として辞任させられました。その後、陳宝箴は西太后から自害を命ぜられました。父親の死は陳三立にとって大きな打撃となりました。そして彼はそれ以降、政治に対して大きく失望し、仏教や詩の世界に傾倒するようになりました。1924年、インドの詩人・「タゴール」が上海を訪問した時、わざわざ陳三立を訪ねました。アジアにある二つの古い文明国の詩人が杭州で会い、互いに詩集を贈り合い、ともに記念写真を取りました。

By whenis , 9 12月, 2016

29歳の時、彼は芸術の探求のため、故郷を離れ、杭州や蘇州、上海などを回りました。最初の2年は詩人・兪曲園について文字学や修辞学を学びました。その後、蘇州で著名な書道家・楊藐翁について、書道の研究に励みました。同時に、彼は任伯年、張子祥ら芸術界の名高い人たちや収蔵家の呉平斎、?盦らと交流を重ねることで、視野が広がり、学術教養も大いに高まり、芸術的な表現力も進歩していきました。

 呉昌碩は詩や書道、絵画、篆刻いずれにも精通する芸術家です。そのうち、絵画が最も有名で、また書道に最も造詣が深かったといわれています。また、詩は書道と絵画の上達を促し、篆刻は書道と絵画の延長線上にありました。この四者はそれぞれ独立して存在するのではなく、互いに補完しあい、密接な関係を持ちながら、芸術家・呉昌碩が完成されていくのです。

By whenis , 8 12月, 2016

劉大白は青年時代、積極的に清王朝や袁世凱に反対する革命活動に参加した同盟会のメンバーでもあります。1910年前後、紹興で同盟会会員である王世裕とともに「紹興公報」を編集。また辛亥革命後に「禹城新聞」を編集しました。袁世凱に反対する「第二次革命」活動に参加したことで、指名手配され、日本に亡命しました。東京滞在中も同盟会に加入しました。

 袁世凱が亡くなった後、南洋から帰国し、1924年柳亜子氏をはじめとする「新南社」に参加。同年、「文学研究会」上海支部に加入しました。そして1924年2月末、邵力子の推薦で上海復旦大学の教授となりました。その後、上海大学の招きで、中国文学の教授を兼任しました。1928年1月、復旦大学をやめ、国立浙江大学の事務長に就任。さらに1929年8月15日、蒋夢麟教育相の要請により、教育省の事務次官となりました。1929年12月15日に教育省事務次官の仕事をやめた劉大白は、1931年から家に閉じこもり、創作に専念。1932年2月、杭州で亡くなりました。53歳でした。

By whenis , 6 12月, 2016

1927年上海光華大学、大夏大学及び南京中央大学で教鞭を執り、同年、胡適、梁実秋らと新月書店を創設、月刊『新月』の編集長となりました。(これが「新月派」という名称の由来)主なメンバーは胡適、徐志摩、梁実秋、陳源であり、その多くは『現代評論』派のメンバーでもありました。政治的には公然と共産党に反対し、革命に反対したとされています。文学的には、ブルジョア的人間性論をたたえ、プロレタリア革命文学を批判しました。

 1931年、南京から北平(今の北京)へ向う途中、飛行機事故で亡くなりました。36歳でした。

1918年渡米、クラーク大学で歴史学と銀行学を、そしてコロンビア大学で政治学を学びました。1920年9月に、コロンビア大学修士号を取得した後、イギリスに行き、ロンドン大学で政治経済を学び、そこで一人の若い女性、林徽音に出会いました。この17歳の少女は元北洋政府の司法総長・林長民の娘で 、その清楚な美しさと感受性豊かな心に、徐志摩はたちまち夢中になってしまいました。

By whenis , 4 12月, 2016

文学革命の指導者として活躍するかたわら、学者としても信奉するプラグマティズムの方法を学問の各分野に応用し、史学・哲学・文学・民俗学などで先駆者的な役割を果たしました。1918年には「建設的文学革命論」を書いて「国語の文学・文学の国語」を主張し、言語・文字・文体改革の理論を展開しました。このような思考方法は1954年以降の胡適思想批判運動のなかで、「内容が形式を決定する」のを本末転倒して、「形式が内容を決定する」ものとして非難されました。「五四運動」以降は李大釗らの左派と対立し、「国故整理運動」に精力を傾けました。

 その後、彼は文学運動から身を引いて、1920年『水滸伝考証』を、1921年『紅楼夢考証』を、1928年『白話文学史』等の実証的な研究を世に問いました。

 しかし、1930年代以降は儒教批判の批判精神も薄れ、次第に国民党の文化政策の代弁者としての色彩が濃厚になり、1938年には駐米大使、1942年には行政院最高政治顧問、1946年には北京大学学長となりました。最後に、台湾中央研究院院長・国民政府総統府資政の職をつとめた後、この世を去りました。72歳でした。

胡適(1891ー1962)中国現代の文学史家・思想家。安徽省績渓県生まれ。

By whenis , 3 12月, 2016

翻訳論について、林語堂は「忠実・通順・美」(忠実・読みやすい・美しい)という見解を出しました。翻訳の三基準について彼は次のように語っています。

 「翻訳の基準にはおそらく三つの基準が含まれているだろう。ここではその優先順にそって検討していきたい。第一は忠実さの基準、第二は読みやすさの基準、第三は美しさの基準である。この翻訳におけるトリプルスタンダードは、厳復の『翻訳の三つの難しさ』とほぼ合致する。忠実さは『信』、読みやすさは『達』であるが、翻訳を詩歌や戯曲などの芸術作品との関係で考えると、もちろん『雅』だけで全てを代表することはできない。だが、かりに呉汝倫の言うように『簡潔さを損なっても、真実を曲げてはならない』原則を守るのであれば、きわめてエレガントに名付けられた『信達雅』の三基準に、上述の三つの側面が含まれると考えてもかまわない。しかし、『信達雅』の達成は、相当たやすいことではないことを、我々は銘記する必要がある」

By whenis , 2 12月, 2016

1928年からずっと中央研究院歴史言語研究所の所長を勤め、研究所の出版物「歴史言語研究所集刊」を創刊、その編集長を兼任しました。1929年の春、歴史言語研究所は南の広州から北京に移り、傅斯年はまた、北京大学の教授を兼任しました。1932年、胡適が社長であった独立評論社に参加し、「独立評論」で蒋介石政権を擁護し、共産党に反対する政治文章を発表しました。抗日戦争勃発後、国民参政会の参政員を担当すると共に、西南連合大学の教授を兼任しました。その時期、彼は抗日戦争を支持し、国民党官僚の腐敗を強く非難していました。抗日戦争勝利後の1948年、南京国民政府の立法委員に選ばれました。1949年1月、歴史言語研究所が台北に移ったのに伴い、傅斯年もそこへ移住、台湾大学の学長を兼任しました。

 傅斯年は政治面で蒋介石政権を擁護、中国共産党に反対し、また、学術面では、純客観的な科学研究を主張しています。

 1950年12月台北で、54歳で亡くなりました。

傅斯年(1896ー1950)は山東省聊城の生まれ。中国近代史上の歴史・言語学者及び考古学者です。

By whenis , 27 11月, 2016

1921年、郭沫若らと共に「創造社」を創設し、1922年、帰国後、「創造季刊」、「創造週報」「創造日」「創造月刊」の編集に携わりました。また、八高時代の自分をモデルに異国に学ぶ孤独な青年の性の悶えと弱小民族の悲哀を描いた『沈淪』を1922年に出版し、問題作となりました。その後、安徽公立法政専門学校、北京大学、武昌師範大学、広州中山大学にて教鞭を執りました。北京では冷遇されたものの、魯迅と出合って影響を受け、1927年、創造社を脱退。1928年、魯迅と共に月刊誌「奔流」を編集、外国文学の紹介に力を注ぎました。1930年、中国自由大同盟の発足、成立にかかわり、また、一時は中国左翼作家同盟に参加。1933年には、中国民権保障同盟に参加、上海分会執行委員をつとめました。1938年には、武漢へ赴き抗日救亡活動に参加、軍事委員会政治部第三庁設計委員をつとめました。同年末、香港、南洋群島一帯へ渡り、抗日愛国宣伝活動に従事。シンガポール陥落ののちスマトラ島へ亡命。日本語に精通しているため、日本憲兵の通訳を務めさせられました。しかし、この時期多くの華僑を助けたため、後に、これが原因となり、日本憲兵によって逮捕され、1945年殺害されました。享年49歳でした。代表作は「沈淪」、『春風沈酔の夜』、『范々夜』、『還魂記』など。