By whenis , 12 9月, 2016

「秦腔」は賈平凹の12番目の長編小説で、彼のふるさと・陝西省丹鳳県を舞台として描いたものです。この小説は素朴な言葉で、改革開放政策が実施された後の農民たちの価値観の変化をうまく表現し、また、ふるさとに対する深い感情を表しています。賈平凹は2003年からこの小説を書き始め、2年間をかけて、4回書き直した後、やっと完成したものです。彼の作品の中で、最も力を入れて創作したものだと言われています。この小説が発表された後、社会で大きな反響を引き起こしました。評論家は「この小説は、社会過渡期における農村で発生した大きな変化を描写し、現代中国の農村を描く作品の中で、一里塚的な意義のある傑作だ」と評価しています。

1975年、西北大学中国語学部を卒業。その後、陝西人民出版社、雑誌「長安」の編集、西安市文学連合会創作研究室主任、文学聯合会主席、全国政治協商会議委員、陝西省作家協会副主席、西安市人民代表大会代表、西安市作家協会主席などの職を歴任しました。1974年から作品を発表し、長編小説「高老庄」、「廃都」、「狼を思い」、「秦腔」、「賈平凹文集」以外に、中篇小説「音声を製造する」、記述文学「私が農民である」などがあります。そのうち、「廃都」はフランスの文学賞、「浮躁」はアメリカの文学賞を受賞しました。 

By whenis , 10 9月, 2016

「北京の中学校で教えていた15年のうち、10年が文化大革命の時でした。その間、中国の教育は大きな打撃を受けたのです。学校には正常な教育秩序もなく、教育者としての役割を十分に果たすことができなかったとき、そのように混乱した教育現場から離れ、別のことをしようと思いました。『担任教師』はその文革時代の教育現場の混乱を描いた作品です。もし、文化大革命がなかったら、私は教師を続けていたでしょう」。この小説が発表された後、社会で非常に大きな反響を引き起こし、新しい時期の文学代表作だと評価され、また、全国優秀短編小説賞を受賞しました。これにより、劉心武の文壇での地位も確立されました。

By whenis , 9 9月, 2016

彼女は自分の文学創作について、次のように述べています。

「私は小さい頃から作家になり、創作活動をしたいと考えていたわけではありません。私達はずっと良く勉強し、進学して、医者かもしくは科学者になるように父母から言われてきました。自然科学に携わる仕事はとても崇高な職業であると思っていただけでした。この考えはこの30年間ずっと私に影響を与えてきたのです。そこで私は奮い立って勉強に励み、全ての科目に大変興味を持ち、また素晴らしい成績を修め、自分でも進学は問題ないと思っていました。学校では理想教育運動が展開され、私は自分の理想を口にすることを求められました。私は少しも躊躇することなく『農民になる』と言っていました。その時、大学のツバメとなり、農村は苦難と希望に満ち溢れており、珍しい色彩を帯び、私のロマンチックな心に呼応したのでした。多分私が農村へ行くなどとは、実際に考えたことがなかったからなのでしょう。私にとって農村とは一つの実現することのない夢のようなものだったので、このように少しも躊躇することなく口にすることができたのだと思います。

By whenis , 28 8月, 2016

1923ー1925年の3年間、上海南洋中学と南京東南大学附中に在学しました。1927年、初めてパリに渡り、多くの啓蒙思想家やフランス資産階級革命の歴史についての著作を広く読み、「夜未央」や、「理論学の期限と発展」(上巻)などを翻訳しました。翌年、書いた第一部長編小説、「滅亡」において、彼は小資産階級知識分子の自発的反封建闘争を褒め称えるだけでなく、一切の強権に反対し、個人の絶対的自由を追求する思想を描き出しました。1928年末に帰国し、長年にわたって、上海で著作・翻訳活動に従事しました。

1931年初め、長編小説「激流」、すなわち「家」を発表し、少年時代の生活体験にもとづいた、封建家庭の中での騙しあいや、新旧両世代の衝突を描き、封建社会の礼儀や道徳が青少年に与える弊害を浮き彫りにしました。そして五四時代の青年知識分子の初歩的覚醒と抗争を賛美し、読者に広く深い影響を与えました。同年、中編小説「霧」も出版。その後、相次いで、中編小説「海の夢」、「春の中の秋」、「芽生え」、「雨」、「電」、及び長編小説「甦る」などを発表しました。

By whenis , 27 8月, 2016

蘇童は中国における現代先鋒文学の代表的作家です。1963年、江蘇省蘇州市生まれ。1980年北京師範大学中文系に入学。卒業後、南京芸術学院や『鍾山』雑誌社に勤めました。現在は中国作家協会江蘇分会所属の専業作家です。主要作品は「妻妾成群」、「罌粟之家」、「紅粉」などです。1983年に小説を発表しはじめ、現在までの作品は110万字に及んでいます。彼の小説は、濃厚な江南の風情と唯美的文体で、中国の現代文壇に独自の旗をたてたことでその名が知られます。中国の著名な映画監督、張藝謀(チャン・イーモウ)が蘇童の「妻妾成群」を元にして撮影した映画「大紅灯篭高高挂」(邦訳:紅夢)がアカデミー賞にノミネートされたことで、蘇童は内外のメディアの注目の的となりました。 

蘇童の小説で書かれた主人公は、一人一人、心の中に闇を抱えています。その闇は、もとより、中国という国のありように根ざしたものには違いありませんが、蘇童は、はっきりと、個としての人間の精神の奥に住む闇に焦点を当てていると思われます。台詞と地の文が区別なく、ずらずらと続く不思議なリズムを持つ文体、日常用語で普通に綴る文のなかに、随所に象徴的表現が現れる、微妙なきしみの感覚。乾いた詩のような文章が構築する蘇童の世界は、恐怖と魅力に満ちています。

By whenis , 26 8月, 2016

池莉は現代中国の先鋭的な女流作家です。1957年中国湖北省生まれ。現在は中国武漢市文学連合会の主席、第10期全国人民代表大会の代表でもあります。主な作品は「来々往々」、「初恋」、「太陽誕生」、「愛なんて」、「ションヤンの酒家」などです。彼女の作品は数多くの文学賞を受賞したほか、映画化されたものもあり、また、外国語に翻訳されたものも多くあります。

次は彼女の小説「ションヤンの酒家」の内容を紹介します。この作品は湖北省の大都市、武漢を舞台としています。主人公は来双揚という"やり手"の女性。彼女は最初、工場で働いていましたが、火事を起こしてしまい、職を追われ、漢口の吉慶街で屋台をやって、生計を立てていました。その後、鴨頸(家鴨の頭部。酒のつまみとなる)の店をやって、小金をもうけ、吉慶街の実力者に成り上がりました。 

By whenis , 21 8月, 2016

1969年、杭州から志願して黒龍江鶴立河農場に下放。農場で8年間労働したあと、1977年、ハルピンの黒龍江省芸術学校に入学し、演劇の創作を学びました。1979年、黒龍江省文聯に移り、創作に専念します。1980年中国作家協会文学講習所第五期の学習に参加し、この年中国作家協会に加入、1982年には国際ペンクラブ中国ペンクラブセンターに加入しました。少女期から文学を愛好し、農場で労働していた頃は、仕事の合間に創作を学び、新聞や雑誌に散文や小説の習作を発表しました。1979年、短編小説「愛的権利」を書き上げ、翌年には「夏」が全国優秀短篇小説賞を、「淡淡的晨霧」が全国優秀中篇小説賞を受賞しました。1983年、「紅罌粟」が第一回上海文学賞を受賞。今までに2冊の短篇小説集、2冊の中篇小説集、2冊の散文集を出し、創作談、児童文学などと合わせて200万字余りの作品を書いています。そのうち短篇、中篇、散文の一部は、英語、フランス語、ドイツ語、ロシア語、日本語などに翻訳されて国外に紹介されました。

次に張抗抗が、自分の創作経験に基づいて、中国の小説の今後について語った内容をご紹介します。

By whenis , 20 8月, 2016

1964年、江蘇省丹徒県に生まれる。本名は劉勇。1981年、上海華東師範大学中文系に入学。卒業後、大学に残って教鞭を執り、同時に小説の創作を始めました。80年代後半から90年代半ばにかけて活躍した作家たちとともに「先鋒派」と呼ばれます。また、その作品は物語展開が難解であることや、文体、そして垣間見られる価値観が奇抜かつ斬新であることから「先鋒小説」などと呼ばれています。格非は1986 年、22歳の若さで登場した「先鋒派」の一人で、実験小説的な技法を駆使して数々の話題作を発表しました。代表作「迷舟」「褐色鳥群」など。邦訳には、桑島道夫訳「迷い舟」や『時間を渡る鳥たち』があります。 

小説は妻の不倫の波紋を追う形で繰り広げられます。職業病で美しい顔を失う妻。不倫による妊娠で、生まれた子供の顔に浮き出るかも知れぬ他人の顔。その不安。この二つの顔もブランコの動きに似ており、一方が消えると一方が現れてきます。しかも最後には、その不幸な顔がすべてふっと消えてしまいます。これもまたブランコが上がりきったときにふっと止まるあの動作の暗示であるといえないでしょうか。 

By whenis , 19 8月, 2016

鉄凝は中国の現代女流作家です。1957年に画家の父鉄揚と声楽家の母徐志英の長女として北京に生まれました。1975年1月に保定市第11中学を卒業。 6月、保定地区博野県の人民公社の農民になりました。1979年に保定に戻り、地区の文芸誌「花山」で小説の編集担当となりました。1984年、河北省文 聯所属の専業作家となり、現在は中国作家協会理事、河北省文聯副主席を勤めています。また、2006年11月12日に彼女は中国作家協会の第三代主席に当 選しました。新中国成立以来、女性作家が作家協会の主席になったのはこれが初めです。  

主な作品は、「おお、香雪『哦,香雪』」、「六月の話題『六月的話題』」、「赤い服の少女『没有鈕扣的紅襯衫』」、「麦積み」、「棉積み『棉花?』」(河北大地の麦・棉・草などを大切にする人間の有り様を追求した、鉄凝の農村物中篇小説集)、長編小説「バラの門『玫瑰門』」、「雨のない街『無雨之城』」、「水浴する女たち『大浴女』」(都市生活をテーマに、女性の成長過程における生理的、心理的変化を描いた作品)などがあります。 

By whenis , 18 8月, 2016

張潔は現代中国では数少ない、日常生活以外に強い関心をもつことのできる女性作家の1人です。彼女の思索や苦しみ、デリケートさがさまざまな趣に彩られています。『無字』は、張潔が何年も企画・構想を練って出版した最新作です。80万字の力作で、3部構成。女性作家・呉為の一生における感情のプロセスを描いています。呉為と最初の夫とのやむをえない結婚、私生児となった娘との確執、苦しい生活のなかで母親と支えあう姿、後半生における2番目の夫との驚くような出会いと別れ……。小説は「無字」というタイトルで、女性の結婚に関する感情の物語をテーマとして、社会の大変革や中国社会100年の激しい変化を表現しています。この小説は、2005年に中国文学の最高の栄誉である「茅盾文学賞」を受賞しました。これは、中国文学界の認識と、中国の読者の好みが一致したことを示しているとされます。

彼女の代表作の一つ、「世界上最疼我的那个人去了」(世界で一番私を可愛がってくれたあの人が去った)という小説のあらすじを紹介します。