By whenis , 28 12月, 2016

洪荒之力(hónghuāngzhīlì)

 「洪荒」は混沌未開の状態であること。「之」はの、「力」は力。

 地球形成の早期は混沌状態にあり、地殻がまだ薄く、地震が頻発し、気温も高く、造山運動によって大洪水がたくさん起きたと言われている。

 この造山運動を繰り返した結果、地球上の大気圏が形成され、地殻も安定した。「洪荒之力」というのは、この地球創生期のような中に秘められた原始的な巨大な力(エネルギー)だという意味。

 この言葉はリオ・オリンピック期間中に話題になった。女子100メートル背泳ぎの傅園慧選手は予選後に記者から成績を聞いて、「こんなに速かったの」と驚いた顔をして、また、記者からの決勝戦のために調整をしたのでは、という質問に「我已经用了洪荒之力了!(全力を尽くした)」と答えた。この素直でユーモラスな答えが反響を呼び、「洪荒之力」という言葉が流行りだした。   

By whenis , 27 12月, 2016

陳独秀(1879ー1942)は安徽省懐寧県の出身で、思想家、中国共産党の創設者です。23歳の時、反清朝宣伝を行ったことで日本に亡命しました。東京高等師範学校、早稲田大学などで学んだことがあります。1906年、同盟会会員となり、帰国後、上海や安慶(現在の安徽省にある)などで口語の新聞を発行し、辛亥革命にも参加しましたが、反袁世凱闘争の最中、再度日本へ亡命しました。

国に戻った後、1915年上海で「青年雑誌」(翌年「新青年」と改称)を創刊し、「新青年」の発刊のことば《敬告青年》の中で、「民主」と「科学」のスローガンを掲げ、これらを汽船の両輪に例えました。彼は儒教批判・文学革命を説き「新文化運動」の旗手となり,青年学生に大きな影響を与えました。1917年初め、陳独秀は北京大学文科学長に就任し、編集部もこれに伴って北京に移り、さらに組織も改造、拡大されました。そのメンバーは、陳独秀、胡適、李大釗、魯迅、銭玄同、劉半農、周作人、沈尹黙、呉虞、高一涵、沈兼士らです。

By whenis , 26 12月, 2016

栄禄は1852年16歳の若さで官職につき、以後は内務府大臣、公部尚書、総理各国事務大臣などを経て、甲午戦争(日清戦争)中は歩軍統領となり軍務に参与しました。戊戌政変の開始直後に直隷総督兼北洋大臣として、北洋三軍を統率、袁世凱の密告を受けてクーデターを実行した。政変後は軍機大臣となり北洋海陸各軍を節制,また正規軍の整備統一と軍備充実をはかり、自ら軍を率いて南苑に赴任しました。光緒帝の廃立問題にも深く関与していました。義和団事件に際しては平和的解決をはかり、しばしば鎮圧を要請しました。8ヶ国連合軍の北京攻略後には、留京弁事大臣となり事後処理にあたり,のち西安に移ってからは政務大臣として新政に参与しました。1902年帰京後,太子大保・文華殿大学士を加えられましたが,翌年で病死し、67歳でした。

By whenis , 25 12月, 2016

1896年には「中俄密約」(露清密約)を結び,ロシア勢力の満州進出を許した。義和団事変(19世紀末,植民地化の危機に直面した中国の華北諸省でおこった反帝国主義的な大衆運動)では露清密約を結び,ロシア勢力の満州進出を許した。義和団事変では全権を委任され列強との交渉に当たり,辛丑(しんちゅう)条約を締結,まもなく病死し、78歳であった。

By whenis , 24 12月, 2016

1864年、新疆地区ではホイ族やウィグル族などの少数民族による蜂起が起きました。1875年左宗棠は新疆の軍務を担当する欽差大臣に任命されました。1877年にはヤクブベクを指導者とする回教徒の反乱の鎮圧に成功しました。とろろが、 新彊への進出を企図するロシアは、居留民保護を口実にイリ地方を占領し、反乱平定後もそのまま居座りました。 これに対し、左宗棠は武力解決を主張しましたが、いれられず、北京へ召還されました。 のちに清仏戦争が起こり、欽差大臣として福建へ派遣されました。だが、彼の創設した南洋海軍はフランス軍の攻撃にあい壊滅。1885年、敗戦の報を受けてまもなく、失意のうちに病没しました。

左宗棠はまた、洋務派官僚の一人として名が知られています。彼は福州の「福州船政局」(馬尾造船所)を創設し、軍備の近代化につとめていました。「福州船政局」は中国近代史で最大の造船企業として、長い期間全国工業科学技術の発展に大きな影響を及ぼしました。また、造船所は安い燃料を必要とするため、台湾の基隆炭鉱が開発され、これは中国が初めて機械を使って採掘した炭鉱となりました。また、台湾近代工業のはじまりだと見られています。

By whenis , 22 12月, 2016

1912年、革命側との交渉で、清朝が滅亡すると、孫文の跡を継いで中華民国の第2代臨時大総統に就きました。その地位を元に独裁権力を確立すると、宋教仁を暗殺し、さらに各地の反袁蜂起(第2次革命)を鎮圧して、正式な初代大総統に就きました。

 第1次世界大戦には中立を宣言しましたが、日本の対華21ヶ条要求を受諾。1916年元旦に自ら皇帝の地位に就き、年号を洪憲元年と改元、国号を中華帝国と改めました。

 しかし、雲南省をきっかけに各地で武装蜂起が起こり、列国も帝位を支持しなかったため、3ヶ月で帝位を取り消すに至ります。それからわずか3ヶ月後の6月6日孤立した中で急死、57歳でした。

1901年、直隷総督兼北洋大臣の地位に就き内政の改革に努めました。1908年に戊戌変法失敗の時の怨恨から一旦政界を追われますが、辛亥革命が勃発すると、復帰し革命勢力と交戦しました。

By whenis , 21 12月, 2016

同盟会の発足後、黄興は広州、雲南各地での蜂起を数回も指導しましたが、そのうち最大規模のものが「黄花崗蜂起」です。この蜂起では72人が死亡し、「黄花岡72烈士」と呼ばれ、今でも、その記念碑が広東省の中心地・広州にあります。1911年10月に武昌蜂起が勃発し、黄興は戦時総司令官に就任、1912年に南京臨時政府の成立とともに、陸軍総長となり、政府の北遷後は南京留守府の長官となります。第2次革命では江蘇討袁軍の総司令となりましたが失敗して、日本に逃れました。亡命後は孫文と意見が合わず,孫文の中華革命党に加入せず、新しい革命勢力の育成につとめ、資金の調達と宣伝活動のためアメリカに渡っていました。第三次革命では孫文に呼応し、袁世凱の死後は上海に戻りましたが、1906年10月、42歳で病死しました。

1905年、日本の友人宮崎寅蔵の紹介により東京で孫文と初対面。二人は統一した革命組織を創設すべきだという点で見解の一致を見たあと、1905年の8月東京で「中国同盟会」が発足させました。  

By whenis , 18 12月, 2016

1920年、安直(直皖)戦争に敗れて失脚。その後、1924年には第二次直奉戦争によって、張作霖らの支持で臨時政府執政となるものの、1926年、馮玉祥に追われて下野しました。のちには国民党政府委員を務めるなどしましたが、1936年に病死。72歳でした。

その後は、安徽軍閥の首領として、直隷派・奉天派と争いました。そして外国の支持を得るため親日的な政策をとり、寺内正毅内閣から"西原借款"を受けました。この"西原借款"とは、寺内正毅内閣が当時の中国政府(実際には段祺瑞が指導する北洋軍閥)に与えた貸し出しのことです。借款の内容は現金供与1億4500万円、武器供与3000万円、合計1億7500万円。そして第一次大戦の際は、連合国側に参戦しました。翌年、政治権力争いにより大総統・黎元洪に総理の地位を追われますが、その後、また国務総理に返り咲き。暫定憲法の制定と国会の復活を拒否し、民主派を弾圧しました。   

By whenis , 17 12月, 2016

1916年の袁世凱の死後、勢力は段祺瑞と馮国璋に二分され、段祺瑞と対立する一方の雄、馮国璋が初めて表舞台に立ちました。これ以降、馮国璋が率いる軍隊は直隷派と呼ばれるようになります。1916年10月馮国璋は副総統に選ばれ、1919年、故郷の河北省で60歳で亡くなりました。

1911年10月、辛亥革命が勃発し、華中・華南では革命派優位で情勢が推移しました。清政府は袁世凱を第2代内閣総理大臣、湖広総督に任命するとともに、反乱軍の鎮圧を命じました。しかし、清朝不利を確信していた袁世凱は部下の段祺瑞・馮国璋らを鎮圧に向かわせたものの、自らは動かず、一方では革命派と極秘に連絡を交わしました。こうして1912年3月、最後の皇帝宣統帝が退位して清王朝が滅亡、袁世凱は新生中華民国の臨時大総統に就任しました。   

1899年袁世凱と共に、「義和団運動」を鎮圧しました。1906年、馮国璋はまた一ついい機会に恵まれ、清政府から署正黄旗蒙古副都統兼陸軍貴族学堂の最高責任者に任命されました。  

By whenis , 16 12月, 2016

1924年から、寥仲ガイは「黄浦軍校」の設立に奔走しました。「黄浦軍校」は中国近代史上初めてとなる、革命のための軍事人材を養成する学校です。1925年5月5日、孫文を総理、蒋介石を校長、そして寥仲ガイが軍事代表を務める「黄浦軍校」が正式に開校し、この三人が学校の最高指導者となりました。その後、寥仲ガイは、この学校の発展に大きく寄与するのです。

 1925年8月、寥仲ガイは国民党の右翼勢力に暗殺されました。48歳でした。

第二次革命後、孫文を含む多くの革命家が再び日本に亡命しました。1914年、孫文は東京で「中華革命党」を結成し、寥仲ガイはこの党の組織を固めるため、全力を挙げ、同時にこの党の財政を担当する副部長となりました。1919年、孫文は「中華革命党」を「国民党」に改称し、『三民主義』を党是と定めました。1923年、孫文がソ連共産党と連携する方針を決め、寥仲ガイは積極的にこうした活動に参与しました。   

その後、親族の助けにより香港の「皇仁書院」で系統的な西洋学の教育を受けました。1897年、香港出身の女性・何香凝と結婚し、「皇仁書院」卒業後、1903年に日本の早稲田大学経済学部に留学。ここで革命思想の影響を受けて、中国留学生によるロシア反対運動に参加しました。