By whenis , 15 9月, 2009

    漢語では感謝の気持ちやお詫びの気持ちを表すには固定した言い方があります。人に求める場合、一般には「麻煩・・・(má fán,すみませんが・・。お手数をかけますが・・)」、「請・・(qǐng,・・してください。)」といいます。また、人に頼みごとがある場合、鉛筆を貸してもらいたいとき、道を聞くとき、ある事を人に伝えてもらいたいとき、ある人が電話に出るよう他の人に頼むときなど中国人は普段は以上のような丁寧な言葉は使わず、特に、相手が親族や仲のよい友人であれば、なおさらです。中国人は相手が自分の感謝の気持ちを知ってくれていると信じているので、余計な言葉は言わないのです。頼まれた人は相手が「謝謝(xiè xiè,ありがとう)」とお礼の言葉を言ったのに対し、一般には「没什么(méi shén me,いえいえ)」、「不用謝(bú yòng xiè,どういたしまして)」と答えます。

By whenis , 13 9月, 2009

    中国人には早くも5000年前から姓(苗字)がありました。昔よく使われた姓を集めた「百家姓」は北宋(西暦960)のときに書かれたもので、これには408の一字の姓と30の二字の姓合わせて438の姓が載っていました。そして今では6000にも増えていますが、実際に使われているのは1000前後です。

    中国人の姓名は、姓が前、名がうしろです。そして姓名を音標文字で表すには、姓と名を分けて書き、姓と名のそれぞれ最初の音標文字は大文字にします。姓は一字のものと二字のものがありますが、その多くが一字のもので、今のところよく使われている一字の姓は、李が一番多く、その次に、王、張、劉、陳と続きます。二字、あるいは二字以上からなる姓はとても少なく、中でも諸葛、欧陽、司馬、端木、公孫などがよくまられます。伝統的習慣に基づき。中国人は父方の姓を使い、少数の人だけが母方の姓を使っていますが、女性は結婚したあとも、姓を変えません。

    名ですが、一字もあれば、二字もあり、多くの中国人は姓名の三文字の二番目、または三番目の字を家系における長幼の順序を表すものとし、特殊な意義があるのです。

By whenis , 12 9月, 2009

    中国人の人との挨拶の交わし方は多く、相手とは面識がなかったり、あまり知らなかったりしても、よく「你好(nǐ hǎo,ニイハオ)」を声を掛け合います。初めてきたところで始めてあった人に対する挨拶には「你好」がよく使われます。また、友人の家に遊びに行き、そこに知らない人がいたら、友人はさっそくその人を紹介してくれ、それから、互いに「你好」の挨拶を交わすのです。

By whenis , 10 9月, 2009

     漢字は、世界で歴史がもっとも長く、広い範囲で使用され、使用者も多い文字のひとつである。漢字の誕生と応用は中華文化の発展を推し進めただけでなく、世界文化の発展にも深い影響を与えた。

By whenis , 1 9月, 2009

   大きな困難にぶつかり、周りの不利な状況のすべてはその者の失敗を予言しているかのようなときのことを、中国語では“四面楚歌”という成語で比喩している。

   紀元前202年、中国最初の封建王朝である秦王朝が誕生した。現在の世界文化遺産である中国陜西省の始皇帝の兵馬俑はこの王朝が残した遺跡である。そしてもう一ヶ所の世界文化遺産――万里の長城も、秦王朝に始めて建設されたもだ。

   秦王朝の支配者はひたすら大きな仕事を好み、特に始皇帝は自分のために豪華な王宮や陵墓を造り、膨大な資金を費やしたので、民百姓たちは酷い搾取を受け、民間では蜂起は相次いで起こっていた。その結果、15年後に、秦王朝は滅ぼされ、そのときには項羽と劉邦がそれぞれ率いる二つの勢力が残っていた。

   もとは楚の地出身であり将軍の項羽は、気丈で傲慢な性格の持ち主であり、また戦いに長けていた。一方、劉邦は秦王朝が滅ぶ前には階級の低い官吏であり、狡猾な性格だったが、人使いはうまかった。秦王朝と戦いで、この二人は義兄弟となり、互い助け合っていたが、秦王朝が滅ぶと、二人は反目してしまった。

By whenis , 24 8月, 2009

  鏡は中国の伝統的文学では満月を意味し、鏡を持ってその人物の何一つ欠点のない品性を形容し、時には人の心は鏡のようにきれいだとか、鏡のようにはっきりしているという。成語の「破鏡重円」は分かれた夫婦がまたもいっしょになることを云う。

 時は西暦9世紀。当時、中国の北方には強大な隋の国があり、南方にはいくつかの小さな国があって、国都が建康(今の南京)にある陳の国はそのうちの一つ。隋はこれら南方の国に対し虎視眈々とし、中国を統一しようを狙っていた。

By whenis , 23 8月, 2009

   中国では、諸葛孔明の名は誰もが知っている。もし誰かを公明に喩えたとすれば、その人の知恵を讃えているのだ。次は諸葛孔明に関する故事である。

By whenis , 22 8月, 2009

  紀元前三世紀の頃は、中国では魏、蜀、呉の三国時代であり、魏は北方を占め、蜀は西南方を占め、南方は呉に占められていた。あるとき、長江の南にある呉を攻めるため、魏は大軍を繰り出し水路からせめて来た。やがて、魏の軍隊は呉に近い地点まで突き進み、河辺で陣営を置き、その後進軍する機会をうかがい始めた。

中国語成語・中国物語

 呉の元帥である周瑜は、魏の軍隊を探察させた後、弓で敵を防ごうと考えた。しかしそれにはどうしても十万本もの矢を短期間内に作り出さなければならない。どうするか?当時呉の能力からみて、それには少なくとも十日はかかるのだか、守備側の呉にとっては、十日は長すぎるのだ。

By whenis , 21 8月, 2009

   紀元前四世紀の中国は、諸侯たちが割拠する「戦国時代」と呼ばれている。この時代に魏の国で仕官している孫臏は、同僚である厖涓に迫害されたあと、斉の使臣に助けられ、斉の国都へとやってきた。

 そして斉の使臣が彼を斉の大将軍である田忌に紹介したので、田忌が孫臏に兵法をたずねると、孫臏は三日三晩続けて兵法を説いたので、田忌は心から感服し、孫臏を貴賓としてもてなし、また孫臏も田忌に感激して知恵や計策を献じていた。

 競馬は当時の斉の貴族の間で最も人気のある娯楽である。国王から大臣までがよく競馬を楽しみ、大金をはたいて賭け事をする。田忌もよく国王や他の大臣とこれに加わったが、これまで負けてばかりいた。この日も彼は負けたので家に帰ってからも不機嫌な顔をしていた。これを見た孫臏は「次回は私もお供しましょう、もしかしたら何かお役にたてるかもしれませんぞ」と田忌を慰めた。

 そして次に競馬が行われたとき、孫臏は田忌について馬場に向かい、文武諸官たちと多くの庶民も見物にきていた。競馬のルールとは馬の速さに基づき、上、中、下の三つの等級分け、ことなる等級の馬はそれぞれ異なった飾りをつけ、また賭けに参加した者の馬は、自分の考に基づき、それぞれ競走に出る馬の順を決め、三試合のうち二勝すれば勝ちとなるというものだった。

By whenis , 20 8月, 2009

  中国の後漢時代、都の洛陽付近の地区ではよく地震が起こった。史書によれば、西暦89年から140年までの五十数年間に、この一帯で起きた地震は三十三回にも上り、中でも119年に起きた二回の大地震の被害範囲は十数の県にも及び、多くの建物は倒壊し、人と家畜が死傷したことから、人々は地震を大きく恐れるようになった。当時の皇帝は、地震が起こるのは、神を怒らせてしまったせいだと思い、より多くの税金を庶民に課して、それを天を拝む行事に注ぎ込んでいた。当時、張衡という科学者がいて、天文、暦法、そして数学にも長けていた。彼は地震に関する迷信を信じず、地震は自然現象であり、人間にはそれに関する知識があまりにもなさ過ぎるとこから、彼は地震の研究に力を入れた。

 張衡は地震が起きる度にそれを細かく観察し記録し、科学的方法で地震発生の原因を突き止め、長年にわたって実験を繰り返した末、西暦132年に、つい恐らく中国だけでなく世界でも最初の地震を予報する機械を作り出し、これを「地動儀」と名付けた。