皆さんこんにちは、「songyun.org中国語教室」というコーナーを始めました。このコーナーでは中国に関する知識や中国語の勉強方法などをご紹介いたしますので、このウェーブサイトを有効にご利用していただき、この中国語教室が皆様のお役にたちますように心より願っています。

私も日々日本語と英語を勉強していきたいと思っておりますので、今後とも、よろしくお願いいたします。

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鯀と禹の治水

  中国では、禹が治水する物語は誰もが知っているが、禹の父である鯀も人々に幸福をもたらした治水の英雄である。

 太古の時代の中国では、二十二年にわたって大水が起き、大地は海となり、五穀は水浸しなり、人々は住まいを無くして生きていけなくなり、また猛獣によく襲われるせいで、人口は激減していった。当時の王である尭はあせり、各部落の首領を集めて相談したのち、鯀に治水をさせることを決めた。

 この命を受けた鯀は、ひどい大水による災いを前に、頭を痛めた挙句、「兵が来れば将でこれを阻み、水が来れば土で塞ぐ」という俗語を思い出したので、村の周りに高い堤を築けば、大水を防ぐことができるのではないかと考えたが、この一面の水を前に、堤を築くのに必要な土や石をどこから手に入れるのかと途方にくれた。そのとき、水中から不思議な亀が現れ、「天の庭には“息壌”というシロモノがあり、それを手に入れて大地に散らせば、息壌が瞬く間に生え、すぐに山となり、堤となるだろう」と教えた。これを聞いた鯀は狂喜し、亀に別れを告げて遥か西方へと旅立った。

嫦娥、月にのぼる

   中国では旧暦の八月十五日が中秋節であり、中秋節は春節(旧正月)、端午節と共に、歴史が最も長く、民族の特色を最も有する伝統的な三大祭日とされている。中秋の日は、家族全員が集まり、月餅や果物を食べながら、月を観賞する風習がある。次は中秋節に関する“嫦娥が月にのぼる”というお話である。

 嫦娥は月の神で、夫の後羿は勇敢で戦に長けている戦いの神であり、狙ったものには必ず的中するほどの弓の腕をもつ。当時、人間世界には多くの猛禽や猛獣が現れ、人々に災いをもたらしていた。これを知った天帝は、これらの害を取り除くよう後羿に命じた。そこで後羿は、美しい妻の嫦娥を連れて人間世界に来た。後羿は剛胆であり強いことから、地上の多くの獣に簡単に打ち勝つことができた。こうして天帝から与えられた任務は完成しかと思われたとき、予想せぬ事態が発生した。つまり空に十個の太陽が同時に現れたのだ。実はこの十個の太陽はいずれも天帝の息子であり、これら息子は、いたずらするため同時に空に現れたので、強い日差しを受けた大地の温度はあっという間に上昇し、森林や畑は燃え、川が枯れ、人々の焼け死んだあとの屍がいたるところに見られた。

天才の作家蘇軾

蘇軾は字が子膽、東坡居士と号する。四川省眉山県の人。父親は著名な古文家で、そのため家庭の教育がよかった蘇軾は子供のころから大志を抱いていた。官吏として使えるようになると、悪政の改革に熱心に取り組み、国の安定のために奮闘した。地方の官僚や宮廷の大臣として悪政の除去と改革を推し進めた。

蘇軾は豪放な性格で、朝廷の誤りを直接に出していうので、宮廷の派閥闘争の犠牲となった。生涯の半分は度重なる政治的苦難に苦しめられた。43歳から幾たびも流刑に処され、流刑先は次第に遠くなり、環境はますます厳しいものになった。苛酷な生涯の中で、蘇軾は中国の儒教、仏教、道教というの三つの宗教哲学をマスターし、楽観的な姿勢で人生の苦しみに臨む解脱の境地を開くと共に、理想を堅持し、美しい物事への追及を堅持することができた。これによって、蘇軾は自らの人格と節操を守り、厳しい外部からの圧力にも耐えることができたのである。

 
蘇軾は表も裏も一致する人柄で、性格は気骨があり、古い観念に捉われなかった。こうした人格と心理は、中国の封建主義の後期における文人から非常に羨望されるようになった。いわゆる「東坡模範」は中国で800年余りも流行した。

 

中国人のお茶を飲む習慣

中国ではお茶を飲む歴史は四千年余り前を遡ることができる。お茶は中国人の日常生活に欠かせないものである。中国では昔から薪、米、油、塩、醤油、酢、お茶は日常生活に欠かせないものとされている。お茶は人々の生活に重要な位置を占めている。また、中国人はお茶でお客さんを招待する習慣もある。お客さんが来ると、まずいい香りをするお茶を立て、飲みならが話をする。これは愉快なことだ。
話によると、紀元280年前、中国の南方には呉という小さな国がある。国王は大臣を宴会に招待する時、よくお酒を酔っ払うまで飲ませた。大臣の中に、酒に弱い韦昭という人がいたが、国王は酒の変わりに彼にお茶を飲ませたのだ。それで文人墨客の間にお茶で客を招待することがはやった。唐の時代になると、お茶を飲む習慣が定着するようになった。茶を飲む習慣は仏教ともかかわりがあるそうだ。紀元713から741年間の間、寺院では、和尚さんと信者達は座禅する時、よく眠くなったのだ。これを見て、1人の年長の和尚さんは彼らにお茶を飲ませた。すると皆が元気がでたのだ。この方法はまもなく、各地に広がった。これと同時に金持ちの家では、専門的にお茶を飲む茶室が設けられた。
紀元780年ごろ、唐の時代の陸羽はお茶の栽培や製造、飲用について中国初の本『茶経』を書いた。

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