中日成語・ことわざ

中日成語・ことわざ

By whenis , 22 11月, 2009

今日は中、日意味が同じな諺を二つ紹介しましょう!

 yuǎn qīn bù rú jìn lín

1.远亲不如近邻:遠い親戚より近くの他人

例句:俗话说:“远亲不如近邻”。大家都是邻居,有什么困难,别客气,尽管说。

(よく言われるように「遠い親戚より近くの他人」です。我々は隣さんだから、何かあれば、遠慮なく、言ってください。)

zhī rén zhī miàn bù zhī xīn

2.知人知面不知心:人は見かけによらぬもの

jìn zhū zhě chì jìn mò zhě hēi

例句:我的一位同事,过年前回老家,借了我的钱,然后就一去不复返了。真是知人知面不知心哪!

(同僚は正月故郷に帰る前、私のお金を借りた、しかし、その後再び帰らなかった。まさか、人は見かけによらぬものだ。) 

jìn zhū zhě chì jìn mò zhě hēi

3.近朱者赤,近墨者黑:朱に交われば赤くなる

例句:俗话说:“近朱者赤”,和你这样文雅的人成为朋友以后,我感觉自己也变得文雅了。

By whenis , 19 11月, 2009

“师傅领进门,修行靠个人。”:shīfu lǐng jìn mén, xiūxíng kào gèrén.

“师傅” は昔技術や芸を伝授する師匠、先生、親方の意味です、今も技芸をもつ人に対して広く用いる尊称です。 “修行”はもともとは佛教、道教で修行することを指しますが、ここでは知識の積み重ねること、身に付けることを指します。

この諺の意味は:入門知識と正しい勉強方法を先生に教わっているが、これからは自分の努力でやります。

この諺の前半は入門の時、先生の重要性を強調しますが、後半は生徒自分の努力と個人差を強調します。普段使う時、みんな後半の意味が重視されます。どんなに有名な先生でも、生徒さんはすべて成功になるわけではないということです。成功できるかどうかこの生徒の今後の努力と能力によって違います。

例句:俗话说,“师傅领进门,修行靠个人。”,课堂上教给学生的是基础知识,要取得优秀的成绩,就要看学生个人的努力了。

(よく言われるように、「入門知識と正しい勉強方法を先生に教わっているが、これからは自分の努力でやります。」、授業中、先生は生徒さん達に基礎知識だけ教えましたが、優秀な成績を取れるなら、生徒さん個人の努力次第ですね。)
 

By whenis , 19 11月, 2009

 “说曹操,曹操就到。”:shuō Cáo Cāo, Cáo Cāo jiù dào

意味:曹操のことを話すと、曹操がやってくる。日本の諺「噂をすれば影がさす。」にあたります。

語源:曹操は、後漢の武将・政治家で三国時代魏の事実上の建国者。「三国志演義」に代表される三国志伝承において、冷酷な悪役として認識される。情報収集力に優れていたため悪口など言えば、すぐに曹操が現れて殺されると恐れたことから。

今はその人のことを話している時、或は思っている時、その人は急に目の前に現れた時、よく使われます。

例句:我们正说你呢,你就来了,真是“说曹操,曹操就到”呀!

(私たちは今あなたの事を話しているところに、あなたが着ました、本当に「噂をすれば影がさす。」ですね!)
 

By whenis , 15 11月, 2009

中国語の四字成語:

“熟能生巧”(shú néng shēng qiǎo):慣れればうまくなるものだ。

“熟”は”熟练”:熟練している、上手であるの意味。

“巧”:(手や口が)器用である、上手である。

例:我的汉语听力怎么总是不好呢? (どうして私の中国語のヒヤリングはいつも悪いんだろう?)

别着急,熟能生巧,多听多练习,慢慢就进步了。(焦らないで、慣れればうまくなるものだから、よく聞いて、よく練習して、だんだん進歩できるだろう。)
 

By whenis , 1 9月, 2009

   大きな困難にぶつかり、周りの不利な状況のすべてはその者の失敗を予言しているかのようなときのことを、中国語では“四面楚歌”という成語で比喩している。

   紀元前202年、中国最初の封建王朝である秦王朝が誕生した。現在の世界文化遺産である中国陜西省の始皇帝の兵馬俑はこの王朝が残した遺跡である。そしてもう一ヶ所の世界文化遺産――万里の長城も、秦王朝に始めて建設されたもだ。

   秦王朝の支配者はひたすら大きな仕事を好み、特に始皇帝は自分のために豪華な王宮や陵墓を造り、膨大な資金を費やしたので、民百姓たちは酷い搾取を受け、民間では蜂起は相次いで起こっていた。その結果、15年後に、秦王朝は滅ぼされ、そのときには項羽と劉邦がそれぞれ率いる二つの勢力が残っていた。

   もとは楚の地出身であり将軍の項羽は、気丈で傲慢な性格の持ち主であり、また戦いに長けていた。一方、劉邦は秦王朝が滅ぶ前には階級の低い官吏であり、狡猾な性格だったが、人使いはうまかった。秦王朝と戦いで、この二人は義兄弟となり、互い助け合っていたが、秦王朝が滅ぶと、二人は反目してしまった。

By whenis , 24 8月, 2009

  鏡は中国の伝統的文学では満月を意味し、鏡を持ってその人物の何一つ欠点のない品性を形容し、時には人の心は鏡のようにきれいだとか、鏡のようにはっきりしているという。成語の「破鏡重円」は分かれた夫婦がまたもいっしょになることを云う。

 時は西暦9世紀。当時、中国の北方には強大な隋の国があり、南方にはいくつかの小さな国があって、国都が建康(今の南京)にある陳の国はそのうちの一つ。隋はこれら南方の国に対し虎視眈々とし、中国を統一しようを狙っていた。

By whenis , 23 8月, 2009

   中国では、諸葛孔明の名は誰もが知っている。もし誰かを公明に喩えたとすれば、その人の知恵を讃えているのだ。次は諸葛孔明に関する故事である。

By whenis , 22 8月, 2009

  紀元前三世紀の頃は、中国では魏、蜀、呉の三国時代であり、魏は北方を占め、蜀は西南方を占め、南方は呉に占められていた。あるとき、長江の南にある呉を攻めるため、魏は大軍を繰り出し水路からせめて来た。やがて、魏の軍隊は呉に近い地点まで突き進み、河辺で陣営を置き、その後進軍する機会をうかがい始めた。

中国語成語・中国物語

 呉の元帥である周瑜は、魏の軍隊を探察させた後、弓で敵を防ごうと考えた。しかしそれにはどうしても十万本もの矢を短期間内に作り出さなければならない。どうするか?当時呉の能力からみて、それには少なくとも十日はかかるのだか、守備側の呉にとっては、十日は長すぎるのだ。

By whenis , 21 8月, 2009

   紀元前四世紀の中国は、諸侯たちが割拠する「戦国時代」と呼ばれている。この時代に魏の国で仕官している孫臏は、同僚である厖涓に迫害されたあと、斉の使臣に助けられ、斉の国都へとやってきた。

 そして斉の使臣が彼を斉の大将軍である田忌に紹介したので、田忌が孫臏に兵法をたずねると、孫臏は三日三晩続けて兵法を説いたので、田忌は心から感服し、孫臏を貴賓としてもてなし、また孫臏も田忌に感激して知恵や計策を献じていた。

 競馬は当時の斉の貴族の間で最も人気のある娯楽である。国王から大臣までがよく競馬を楽しみ、大金をはたいて賭け事をする。田忌もよく国王や他の大臣とこれに加わったが、これまで負けてばかりいた。この日も彼は負けたので家に帰ってからも不機嫌な顔をしていた。これを見た孫臏は「次回は私もお供しましょう、もしかしたら何かお役にたてるかもしれませんぞ」と田忌を慰めた。

 そして次に競馬が行われたとき、孫臏は田忌について馬場に向かい、文武諸官たちと多くの庶民も見物にきていた。競馬のルールとは馬の速さに基づき、上、中、下の三つの等級分け、ことなる等級の馬はそれぞれ異なった飾りをつけ、また賭けに参加した者の馬は、自分の考に基づき、それぞれ競走に出る馬の順を決め、三試合のうち二勝すれば勝ちとなるというものだった。