皆さんこんにちは、「songyun.org中国語教室」というコーナーを始めました。このコーナーでは中国に関する知識や中国語の勉強方法などをご紹介いたしますので、このウェーブサイトを有効にご利用していただき、この中国語教室が皆様のお役にたちますように心より願っています。

私も日々日本語と英語を勉強していきたいと思っておりますので、今後とも、よろしくお願いいたします。

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一葉障目

一枚の葉が目を塞ぐというのが、字面の意味です。この言葉にちなんで、面白い伝説があります。

 これも春秋時代のことです。

 楚の国には、貧しい書生がいました。しかし、彼は勉強にあまり熱心ではなく、まともでないことを考えたりしていました。

 ある日、「淮南子」という本を読んでいたところ、「カマキリがセミを捕ろうとするときに持った葉っぱが、身を隠す効果がある。人間がそれを手に入れれば、他人の目から見えなくなり透明人間になる」という記述に目を奪われました。書生はそれを信じ込み、毎日林の中に潜り込んで、このような葉っぱを探すことに没頭していました。

 ある日、「淮南子」に記載された場面が彼の目の前で起こりました。一匹のカマキリが葉の後ろに隠れて、前方にいるセミを捕ろうとしていました。書生は大喜びし、その葉を摘みました。しかし、あまりにも興奮したせいか、書生の指がちょっと震えたため、その葉はゆらゆらと地面に落ち、落ち葉の中に混ざってしまい、どれか分からなくなりました。書生はやむを得ずそこにあるすべての落ち葉を家に持ち帰りました。

一鳴驚人

鳥が一旦鳴いたら、人を驚かせるというのが、字面の意味です。それから転じて、普段は無名ですが、一度やり出すと人をびっくりさせる素晴らしいことをなすという意味で使われます。つまり、平凡だと思われていた者が突然目覚しい成果を挙げるという意味です。

 たまにはこんな人と出会いますね。普段は無口だったり、或いは遊んでばっかりのように見えますが、いざとなると、人をびっくりさせるほど、非常にすばらしい手腕や才能を見せる人がいますね。

 その出典となる物語にも、すばらしい人物がいます。ご紹介しましょう。

 中国の春秋時代。紀元前614年、晋と楚が覇権をめぐる争いを繰り広げていました。楚の穆王(ぼくおう)が突然亡くなり、その息子である荘王が即位しました。晋は楚の国が葬式や即位などを行う時間を利用し、楚の同盟国だった陳や鄭など小さな国々を自らの支配下にしました。楚の大臣たちは、焦りだして、晋と決戦すべきだと荘王に進言しましたが、荘王はそれを聞き入れず、何の行動もしませんでした。

 即位してから3年間、楚の荘王は遊びや女に溺れ、政をしようとしませんでした。また、進言する人が現れれば、殺してやると大臣たちを脅していました。

一鼓作気

"一鼓作気"は、張り切って物事を成し遂げるという意味です。字面の意味は、一回太鼓を叩くと、士気を高めることができるということです。出典は、中国春秋時代の歴史書、「春秋左氏伝」です。それは孔子の編纂と伝えられる歴史書『春秋』の代表的な注釈書の一つです。こんな物語があります。

 春秋時代、斉の国が軍隊を派遣し、魯の国を攻撃してきました。魯の王様は迎撃しようとしていました。こんな時に、曹劌という人が訪ねてきて、戦争に関する考え方を述べた後、戦の様子を見たいと頼みました。王様はその才能を評価し、頼みを許しました。 やがて、両軍は対陣します。斉の軍隊が太鼓を叩いて軍を進めようとするのを見て、魯の王様は急いで迎撃しようとしています。曹劌は「まだ進む時ではない」と言って止めました。斉軍が三度も太鼓を叩いた時になると、曹劌は「いいぞ!軍を進めてください」と話しました。すると、王様が軍を進める命令を発し、大きな勝利を収めました。

 戦の後、魯の王様は理由を聞きました。曹劌は、「兵士たちが戦うには、勇気がなければならない。一度目の太鼓で士気は最も上がるが、二度目にはやや衰え、三度目には尽きるものだ。向こう側は士気が衰え、まったく戦意を失った時に、わが軍は最も士気が上がっている。だから、敵を負かしたのだ」と勝因を分析しました。

四面楚歌

"四面楚歌"、日本語もそのまま「四面楚歌」と言いますね。孤立無援の状態を表すものです。これは、項羽にまつわる話です。簡単にご紹介しましょう。項羽の軍が垓下に立てこもった時の話です。兵は少なくなり、食べ物もつきました。劉邦が率いる漢軍と諸侯の兵は、これを幾重にも取り囲みました。夜になって、漢軍の中で盛んに楚の歌を歌う声を聞いて、項羽は大いに驚き、「漢はすでに楚を得たのか。なんと楚の人が多いことか」と言いました。

 司馬遷が書いた歴史書『史記・項羽本紀』の故事によるものです。しかし、四面に楚歌、楚の歌が聞こえたのは、項羽が心配していた大本営、楚が占領されたわけではありません。劉邦とその軍師である張良が仕組んだ心理的な計略です。

 気分が淋しくなる夜中に、疲れ果てた楚の兵士は、懐かしい故郷の歌声を聴いて、ホームシックになり、戦意をくじかれました。劉邦と比べると、項羽は力と勇気がありすぎて、計略が足りないということでしょうか。結局、烏江で攻められ、自殺することになりました。

 「四面楚歌」。敵に囲まれて孤立し、助けを求められないことのたとえです。周りに味方がなく、周囲が反対者ばかりの状況をもいい、孤立無援ともいいます。 「四面楚歌」のような状態に陥りたくありませんね。周りの人たちと仲良くしましょう。

三顧茅盧(さんこぼうろ)

日本人でもお馴染みの『三国志』の有名な話、三顧の礼ですが、中国語では、"三顧茅盧"と言います。。"茅盧"とは、草葺きの粗末な住まいです。"三顧茅盧"は劉備が諸葛孔明を迎える際に三度たずねたとする故事に由来する四字熟語です。心から礼儀を尽くして、すぐれた人材を招くことを表します。

 当時、三番目の勢力だった劉備は、自分の勢力を拡大するために、優秀な軍師を探していました。ある日、「諸葛孔明という優秀な人物がいる」と進言してきた者がいました。

 劉備は、さっそく孔明の住む草葺きのわびしい住まいを訪ねましたが、逢ってもらえませんでした。2度目も、逢うことはかないませんでした。3度目に出向いた時に、孔明は劉備の熱意に打たれ、配下になることにしました。

その後、劉備は孔明の活躍などで地域を平定し、見事、皇帝の座につくことができました。

 "三顧茅盧"の故事でした。劉備は謙虚な姿勢で諸葛孔明の一生の忠実を得ました。個人的な才能は目立たない劉備ですが、厚い人望で最終的に天下三分の一席を占めたのです。

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