By whenis , 14 10月, 2018

金代から清代まで、北京にはずっと「燕京八景」と呼ばれるものがありました。この八景は長い歴史の中で何度も変わりましたが、この金台夕照も八景のうちの1つでした。もともとの位置は現在の北京財富センターの側で、石碑が建っています。金台は燕の昭王の時代にはすでにありました。当時、昭王は覇者になることを願っていました。高台を設置し黄金を置き、勇猛果敢な豪傑たちを募りました。これが有名な「黄金台」です。今は豪傑たちの姿もなく、黄金の台が夕日に映える景色を再び現すこともかないませんが、この駅名には、かつてここに残された物語の片鱗を留め今に伝えています。

観光スポット

中央テレビ新社屋(中央电视台新址)

 朝陽区のビジネスセンター(CBD)の中央にあります。z型の独特な建築デザインは中国10大建築の奇跡とも言われています。

アクセス:地下鉄B出口すぐ。

世貿天階天幕(世贸天阶天幕)

By whenis , 10 10月, 2018

亮馬橋駅(亮马桥站)

 亮馬橋という名前は、東直門外を流れる1つの川に由来しています。伝えられるところによると、かつて北京にやってきた商人たちの馬車が入城するには、まず馬を洗って旅の途中でついたほこりや泥をきれいに落とさなければなりませんでした。まず商人たちはこの河で馬を洗い、川岸にある大木に馬をつなぎ、体が乾くのを待ちました。こうしてはじめて入城できるのです。このことからこの河は「晾馬河(馬を乾かす河」と呼ばれ、それがいつしか音だけが残り現在の名前となりました。また別の説もあります。明の永楽年にこの辺りに皇帝の馬苑があり、河の両岸は馬の放牧地となっていました。御馬官はいつもこの河で馬を洗い、馬の体を乾かしていたので、周辺の人々に「晾馬河」と呼ばれるようになったということです。

 現在この辺りは新たなビジネススポットとなり、かつての面影はありません。いち早く外国人にサービスを提供したエリアでもあり、今も多くの外国人が住む地域です。

 観光スポット
亮馬収蔵品市場(亮马收藏品市场)

By whenis , 8 10月, 2018

10号線は2008年の北京オリンピックの前に開通した地下鉄です。全長24.55キロメートルに22の駅があり、このうち7駅が他の地下鉄への乗り換え駅となっています。

 「北京のシリコンバレー」と呼ばれる中関村とオフィス街のCBDを直接結んでおり、ビジネスマンたちの主要な足となっています。

 蘇州街駅(苏州街站)

 歴史上、北京の西部にはあわせて3つの蘇州街と呼ばれる道があります。1つは円明園、1つは頤和園、そしてもう1つは地下鉄10号線の蘇州街です。

 この旧い街道の起源は清の乾隆年にまで遡ります。乾隆16年(1751年)、乾隆帝は江南の視察に出かけ、その母である孝聖憲皇太后もともに赴きました。60歳になる皇太后の初めての江南旅行で、その美しい景色は皇太后の心にしっかりと刻み付けられました。

By whenis , 7 10月, 2018

モスクワの地下鉄は世界で最も美しいと言われ、「地手鉄の芸術的殿堂」と称えられています。ロシアの有名な建築家が設計した駅は優雅でまるで宮殿のようです。これに比べれば北京の地下鉄はなんと味気ないことか。しかし、このオリンピック線は大きく地下鉄の概念を変えました。4.5キロのオリンピック線は地下鉄8号線の1部分で、2008年の北京オリンピック開催にあわせ建設されました。地下鉄10号線の乗換え口である北土城から出発し、森林公園のオリンピック湖の南岸を4つの駅でつなぎます。それぞれの駅には、テーマがあり中国の伝統的な青花模様やオリンピックにちなみスポーツをモチーフにしたデザインなど個性的で、見るものを驚かすことでしょう。

 この地下鉄付近にある観光スポットをまとめてご案内します。

観光スポット

オリンピック公園(奥林匹克公园)

By whenis , 5 10月, 2018

和平西橋、和平里北街、和平街北口などの名前は全てある会議に由来しています。1954年に和平里一帯に街道管理事務所が置かれることになりました。時を同じくしてアジア、太平洋地区の数十カ国が参加する「アジア太平洋地区和平会議」が北京で開催されており、管理事務所はこの会議の名前をとり、和平里街道管理事務所とされました。その後もこの一帯は開発がすすむにつれ、「和平」の二文字がよく使われるようになったのです。 

 もともとこの辺りは元大都城の北部で、今も遺跡が公園に姿を変え残っています。高校や北京化学工業大学、北京中医薬大学、北京服装学院、対外経済貿易大学など教育機関が集中し、まわりには小さな店が立ち並ぶ賑やかな場所でもあります。

観光スポット

 北京中医薬大学中医薬博物館(北京中医药大学中医药博物馆)

 1990年に建てられた博物館で又の名を「逸夫科学館」と言います。中国医学の歴史を紹介し、930件にも及ぶ医学関連文物を収蔵しています。また古代医学書籍が200冊以上、中国医学書が6000冊以上あります。鍼灸関連や少数民族の医療用具、白銅でつくられた外科用具などを見ることができます。

 アクセス:地下鉄B出口出て、三環路に沿って東へ500メートル進み、道を渡ってすぐ。

By whenis , 29 9月, 2018

この駅は地下鉄2号線の乗換駅です。出口を出ると、真っ先に目に飛び込んでくるのは赤い塀で囲まれた雍和宮です。雍和宮はチベット仏教の博物館とも呼ばれ、国内最高レベルのチベット仏教寺院です。寺ではなく「宮」と呼ばれていることは、ここが特別な地位にあることを示しています。牌坊と天王殿、雍和宮大殿、永佑殿、法輪殿、万福閣寺などの5つの壮大な大殿から成り、それらは全て塀で囲まれ、南から北へ向かってだんだんと小さくなっていくよう配置されています。高くそびえる屋根を持つ雍和宮は、漢族、満族、蒙古族、チベット族の特色を備えています。観光客ばかりでなく、長い線香を手に願かけをする市民の姿を見ることもできます。

観光スポット

地壇

 壇とは、古代に祭祀やその他の大きな行事を行うの用いた台のことで、ここは北京に5つある壇のうち、2番目に大きいものです。1530年に建設され、明と清の2つの朝廷の皇帝が祭祀を行った場所です。そして、中国に現存するうちで最も大きい壇でもあります。1925年に公園として一般開放され、1928年に現在の地壇公園と名前がつけられました。公園の中にはレストランもあり、のんびりと時間が過ごせる場所です。

By whenis , 25 9月, 2018

「北新橋」という名前にまつわる民間伝説が残っています。明朝が北京に都を置き、当時風水師であった劉伯温と姚広孝に都の設計が命じられました。設計された都市は八臂哪吒(はっぴなた)城と呼ばれました。つまり北京市は哪吒太子をかたどって設計したと言われているのです。これが北京市の雛形になりました。

 当時、北京には9つの「海眼」と呼ばれる湧き水が出来る場所が9つあり、それぞれが東海に通じていました。そのうちの8つは鎮められ、鎮守のための廟や塔がありましたが北新橋にあった海眼にはありませんでした。水を司る神、竜王が現れた時、劉伯温は1つの提案をしました。「わたしたちは都をつくっています。あなたが先に入城し、橋が古くなった時に再び現れてください」。竜王はしばらく考え海眼に飛び込みました。劉伯温は人々に「ここを北新橋と呼びさえすれば、永遠に古い橋とはならない。竜王が再び姿を現すことはない」と語ったということです。

 グルメ

 簋(グイ)街

 北京一の夜市と聞いて人々が真っ先に思い浮かべるのは東直門のグイ街と呼ばれるレストラン街です。「皆ザリガニ食べて、夜通しさわぐ」とは、ザリガニの辛味ソース和えが流行っていた時の街のにぎやかな様子を表したものです。

By whenis , 17 9月, 2018

張自忠路はもともとは鉄獅子胡同と呼ばれていました。明、清、民国、共和国の何百年かの時空を経た歴史的な胡同です。数多くの歴史的人物と深く関わっている場所でもあります。袁世凱、孫文、宋慶齢、郭沫若、老舎、毛沢東、周恩来、劉少奇など、わたしたちが良く知る人物たちの名が挙げられます。

 抗日戦争が終わり、1947年3月13日に現在の張自忠路に改名されました。

 観光スポット

 段祺瑞執政府跡(段祺瑞执政府旧址)

 まだここが鉄獅子胡同だった頃、段祺瑞執政府の住所は「1号」だったため略称で「鉄1号」と呼ばれていました。清代ここには、和新王府、貝勒斐蘇府、和敬公王府という3つの府が置かれていました。清末期に和新王府、貝勒斐蘇府の建物は撤去され、レンガと木造づくりの楼閣が再建されました。ヨーロッパの伝統建築様式が用いられました。1912年に袁世凱が中華民国臨時大統領に就いた時、総統府と国務院はここに置かれました。

 アクセス:地下鉄A出口出て、張自忠路に沿って西へ50メートル。

 

 和敬公主府(和敬公主府)

By whenis , 16 9月, 2018

昔からの北京っ子たちの間では、賑やかな繁華街を「東四西単鼓楼前(門)」と言っていました。現在の東四は元時代にはすでに商業地区として栄えていました。元大都城の成立後、この地は「旧枢密院角市」と呼ばれ、当時城内の三大商業地区の1つでした。明代永楽年に現在の東四十字路と向かい合う西四十字路にそれぞれ牌楼が作られました。この牌楼は、東西南北の四方に作られたため「四牌楼」と呼ばれました。清康煕年38年(1699年)に火災の被害に遭い、その後再建されましたが、1954年に撤去されました。

 観光スポット

 隆福寺通り(隆福寺街)

By whenis , 15 9月, 2018

灯市口駅(灯市口站)

 その名の通り灯市口の名前は京城の「灯市」に由来しています。「灯市」とは「元宵節(旧暦1月15日の伝統的な節句)」に使われる飾り提灯を売る市や提灯で飾られた街のことです。灯市はもともと五鳳楼(紫禁城の正門)に設置されていましたが、その後現在の東華門外の灯市口大街一帯に移りました。

 灯市が行われている間は、昼は市場、夜は明かりが掲げられました。道の両脇には飾りつけられた小屋が立ち並び、さまざまなデザインの飾り提灯が通りの端から端まで掲げられました。小屋の上に布を張り、酒を出す店もあり、当時の高官や身分の高い人々がこれらの店を貸切り、提灯の眺めを楽しみました。提灯のほかにも、音楽や雑技の出し物も催され、大変賑やかでした。

 清の時代になり、この当たりは旗人(清朝の八旗に属する人)の居住地となり、漢民族は全て前三門以外に移り、東華門外の灯市の城壁の外へと移されました。現在、残念ながら灯市は失われ、その名前のみが地名となって残っています。

 観光スポット

中華聖書会遺址(中华圣经会遗址)