中日成語・ことわざ

中日成語・ことわざ

By whenis , 31 10月, 2025

高瞻远瞩
遠大な視野
gāo zhān yuǎn zhǔ

出典と由来
この成語は、中国の漢代の王充(おうじゅう)の著作『論衡(ろんこう)』の「別通篇(べつつうへん)」に由来します。原文は「夫閉戸塞意,不高瞻覽者,死人之徒也哉」とあり、戸を閉めて視野を狭くし、高く登って遠く見ることのない人は、死んでいる者と同じだと述べています。後世に、長期的な視野を持って物事を見通す意味で使われるようになりました。

意味
「遠大な視野」とは、現在の限界を超えて未来を見通す広い視野を持つことを意味します。近い意味の言葉に「先見之明(せんけんのめい)」、反対の意味の言葉に「目先の利(もくさきのり)」があります。

By whenis , 30 10月, 2025

1. 日本語訳‌
「空気を読む」(くうきをよむ)
※中国語の「察言观色」(chá yán guān sè)は、日本語で完全に一致する表現はありませんが、意味的に近い「空気を読む」「相手の表情や言葉から本音を察する」と訳されます。

‌2. 出典・由来‌
中国の春秋戦国時代(紀元前5~3世紀)に由来します。

By whenis , 29 10月, 2025

见多识广
jiàn duō shí guǎng‌‌
中国の成語(四字熟語)で、日本でも同様に使用される。中国の古典文献(例:『三国志』『聊斎志異』など)に由来するが、具体的な出典は不明。
‌意味‌:
「多くの事物に触れ、経験を積み、知識が広く深いこと」を表す。
‌「见多」‌:多くの事象を見た経験がある。
‌「识广」‌:幅広い知識を持っている。
例文‌:
「彼は海外在住歴があるので、‌见多识广‌な人です。」
(他因为有海外居住经历,是个‌见多识广‌的人。)
類義語‌:
‌「博学多才」‌(はくがくたさい)
‌「学富五車」‌(がくふごしゃ)
中国の成語として、日本でも一般的に理解される表現です。

By whenis , 7 6月, 2019

四字成語"破鏡重円"(はきょうじゅうえん)は、引き裂かれた夫婦が再び結ばれることを意味します。

 中国の南北朝時代、陳の国の皇女、楽昌皇女が、才能豊かで名が知られる徐徳言と結婚しました。夫婦二人、とても睦まじく暮らしていました。

 やがて、陳の国は衰退し、北朝の隋によって滅ぼされるのが明らかになってきます。戦乱によって、離れ離れになることを案じた皇女は、毎日お化粧の時に使う銅製の鏡を割って、片方を夫に渡し、もう片方を自分が持つことにし、約束しました。毎年の旧暦1月15日、即ち、元宵節の日に、隋の都であった長安、つまり現在の西安の町で、鏡を売りだすふりをし、鏡を互いの再会の証として、相手と再会するまで探していくと。

 まもなく陳は隋によって滅ぼされ、皇女は隋の大臣、楊素の側室となりました。翌年の1月15日、徐徳言ははるばる長安に駆けつけました。市場では片方の鏡を高値で売っている年老いた下僕がいました。徐徳言は懐から自分が持っていた半分の鏡を出して、それに合わせると、確かにぴったり合うのです。

 しかし、探していた妻はいません。すると、徐徳言はその場で詩を書きました。「鏡は人と共に去り、鏡は帰ったものの人は帰らない。鏡にはもう皇女の姿が写らず、ただ空しく月の光が残っている。」

By whenis , 3 6月, 2019

「黄粱一夢」。字面の意味は、粟のご飯を炊いている間に見た短い夢です。面白い物語が伝わっていますので、ご紹介します。

唐の時代に、盧という貧乏な書生がいました。いつも自分に運が回って来て、財産や地位のすべて手に入れることを夢見ていました。試験を受けるために上京する途中、大雨に遭ったので、旅館に入り、呂翁 という名の道士に合い、意気投合しました。

 盧生は自分の貧乏な暮らしを語りながら、いささか悲しくなっているようです。すると、呂翁は陶磁器の枕を出して、「これを使って寝なさい。あなたの夢を叶えてあげるよ!」と言いました。

 盧生は半信半疑で、枕に頭を乗せて寝ました。そのとき、店主は二人のために粟のご飯を炊こうと、粟の粒を鍋にかけたところです。

 盧生は寝ると、自分はなんだか大きくてきれいな家に入りました。そして、脳裏ではそこが自分の家だと認識しています。数ヵ月後、彼は金持ちの美しい娘と結婚し、ますます多くの財産を持つようになっています。またしばらくすると、 盧生は都に行って科挙試験を受験し、一挙クリアし、かなり高い官職を手に入れました。その後、その官職はどんどん高くなり、宰相まで勤めるようになりました。

By whenis , 31 5月, 2019

"滄海一粟"(そうかいのいちぞく)。海の中の一粒の粟。広大なものの中のきわめて小さいものという意味で使われます。転じて、宇宙における人間の存在のはかないことのたとえです。 その出典は蘇軾の詩、「前赤壁賦」です。

 蘇軾は、中国の宋の時代の有名な文学者です。もう一人の有名な文学者であり、政治家でもある王安石の変法に反対したため、現在の湖北省にある黄州に左遷されました。黄州では、蘇軾は2本の「赤壁賦」を書き上げました。「前赤壁賦」では、蘇軾は "寄蜉蝣于天地,渺沧海之一粟。"と詠みました。

 蘇軾は三国志のゆかりの地、赤壁・レッドクリフを訪ね、長江を眺めながら色々思ったんでしょう。「今日、私たちは赤壁を訪ねているが、昔、曹操は奇抜なヒーローだった。今、ヒーローはどこにいるのか?私たちは魚や海老、鹿などと一緒に、まるでカゲロウと同じように天地を彷徨い、広々とした海の中の一粒の粟のようだ。長江の水は尽きがないが、我々の一生はどんなに短いものだろう。」と嘆いたでしょうね。

By whenis , 30 5月, 2019

"背水一戦"の日本語訳は、「背水の陣」となります。意味は、絶体絶命の窮地に置き、決死の覚悟で全力を尽くすことです。背後に大河の控える逃げ道のない死地に陣を敷いたことで、兵士たちに決死の覚悟で奮戦させ、活路を開いたという、漢の大将軍・韓信の故事から由来した言葉です。出典は、司馬遷が書いた「史記・淮陰侯列伝」となります。その主人公は、劉邦配下の大将軍、韓信です。

 韓信は趙王、歇(あつ)の軍隊を侵攻しようとしています。そのためには、井陘口という細い山道を通過しなければなりません。趙王の策士を務める李左車という者は、趙王の大将軍、陳余にこう語りました。

 「井陘口を塞いでおいて、奇襲の兵を派遣し、漢軍の軍需品の車列を分断させてください。そうすると、漢軍は進んで戦うことができず、退却することもできず、供給もなくなる。必ず破れる」と提案しました。

 しかし、大将軍の陳余は兵力の優位性に頼り、そのような不意打ちの奇計を用いず、漢軍と正々堂々と対戦することにしました。

By whenis , 28 5月, 2019

一枚の葉が目を塞ぐというのが、字面の意味です。この言葉にちなんで、面白い伝説があります。

 これも春秋時代のことです。

 楚の国には、貧しい書生がいました。しかし、彼は勉強にあまり熱心ではなく、まともでないことを考えたりしていました。

 ある日、「淮南子」という本を読んでいたところ、「カマキリがセミを捕ろうとするときに持った葉っぱが、身を隠す効果がある。人間がそれを手に入れれば、他人の目から見えなくなり透明人間になる」という記述に目を奪われました。書生はそれを信じ込み、毎日林の中に潜り込んで、このような葉っぱを探すことに没頭していました。

 ある日、「淮南子」に記載された場面が彼の目の前で起こりました。一匹のカマキリが葉の後ろに隠れて、前方にいるセミを捕ろうとしていました。書生は大喜びし、その葉を摘みました。しかし、あまりにも興奮したせいか、書生の指がちょっと震えたため、その葉はゆらゆらと地面に落ち、落ち葉の中に混ざってしまい、どれか分からなくなりました。書生はやむを得ずそこにあるすべての落ち葉を家に持ち帰りました。

By whenis , 27 5月, 2019

鳥が一旦鳴いたら、人を驚かせるというのが、字面の意味です。それから転じて、普段は無名ですが、一度やり出すと人をびっくりさせる素晴らしいことをなすという意味で使われます。つまり、平凡だと思われていた者が突然目覚しい成果を挙げるという意味です。

 たまにはこんな人と出会いますね。普段は無口だったり、或いは遊んでばっかりのように見えますが、いざとなると、人をびっくりさせるほど、非常にすばらしい手腕や才能を見せる人がいますね。

 その出典となる物語にも、すばらしい人物がいます。ご紹介しましょう。

 中国の春秋時代。紀元前614年、晋と楚が覇権をめぐる争いを繰り広げていました。楚の穆王(ぼくおう)が突然亡くなり、その息子である荘王が即位しました。晋は楚の国が葬式や即位などを行う時間を利用し、楚の同盟国だった陳や鄭など小さな国々を自らの支配下にしました。楚の大臣たちは、焦りだして、晋と決戦すべきだと荘王に進言しましたが、荘王はそれを聞き入れず、何の行動もしませんでした。

 即位してから3年間、楚の荘王は遊びや女に溺れ、政をしようとしませんでした。また、進言する人が現れれば、殺してやると大臣たちを脅していました。

By whenis , 26 5月, 2019

"一鼓作気"は、張り切って物事を成し遂げるという意味です。字面の意味は、一回太鼓を叩くと、士気を高めることができるということです。出典は、中国春秋時代の歴史書、「春秋左氏伝」です。それは孔子の編纂と伝えられる歴史書『春秋』の代表的な注釈書の一つです。こんな物語があります。

 春秋時代、斉の国が軍隊を派遣し、魯の国を攻撃してきました。魯の王様は迎撃しようとしていました。こんな時に、曹劌という人が訪ねてきて、戦争に関する考え方を述べた後、戦の様子を見たいと頼みました。王様はその才能を評価し、頼みを許しました。 やがて、両軍は対陣します。斉の軍隊が太鼓を叩いて軍を進めようとするのを見て、魯の王様は急いで迎撃しようとしています。曹劌は「まだ進む時ではない」と言って止めました。斉軍が三度も太鼓を叩いた時になると、曹劌は「いいぞ!軍を進めてください」と話しました。すると、王様が軍を進める命令を発し、大きな勝利を収めました。

 戦の後、魯の王様は理由を聞きました。曹劌は、「兵士たちが戦うには、勇気がなければならない。一度目の太鼓で士気は最も上がるが、二度目にはやや衰え、三度目には尽きるものだ。向こう側は士気が衰え、まったく戦意を失った時に、わが軍は最も士気が上がっている。だから、敵を負かしたのだ」と勝因を分析しました。