中国茶の歴史

皆さんこんにちは、「songyun.org中国語教室」というコーナーを始めました。このコーナーでは中国に関する知識や中国語の勉強方法などをご紹介いたしますので、このウェーブサイトを有効にご利用していただき、この中国語教室が皆様のお役にたちますように心より願っています。

私も日々日本語と英語を勉強していきたいと思っておりますので、今後とも、よろしくお願いいたします。

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中国茶の歴史

林語堂ー近代作家、思想家、言語学者

翻訳論について、林語堂は「忠実・通順・美」(忠実・読みやすい・美しい)という見解を出しました。翻訳の三基準について彼は次のように語っています。

 「翻訳の基準にはおそらく三つの基準が含まれているだろう。ここではその優先順にそって検討していきたい。第一は忠実さの基準、第二は読みやすさの基準、第三は美しさの基準である。この翻訳におけるトリプルスタンダードは、厳復の『翻訳の三つの難しさ』とほぼ合致する。忠実さは『信』、読みやすさは『達』であるが、翻訳を詩歌や戯曲などの芸術作品との関係で考えると、もちろん『雅』だけで全てを代表することはできない。だが、かりに呉汝倫の言うように『簡潔さを損なっても、真実を曲げてはならない』原則を守るのであれば、きわめてエレガントに名付けられた『信達雅』の三基準に、上述の三つの側面が含まれると考えてもかまわない。しかし、『信達雅』の達成は、相当たやすいことではないことを、我々は銘記する必要がある」

傅斯年ー中国近代史上の歴史・言語学者及び考古学者

1928年からずっと中央研究院歴史言語研究所の所長を勤め、研究所の出版物「歴史言語研究所集刊」を創刊、その編集長を兼任しました。1929年の春、歴史言語研究所は南の広州から北京に移り、傅斯年はまた、北京大学の教授を兼任しました。1932年、胡適が社長であった独立評論社に参加し、「独立評論」で蒋介石政権を擁護し、共産党に反対する政治文章を発表しました。抗日戦争勃発後、国民参政会の参政員を担当すると共に、西南連合大学の教授を兼任しました。その時期、彼は抗日戦争を支持し、国民党官僚の腐敗を強く非難していました。抗日戦争勝利後の1948年、南京国民政府の立法委員に選ばれました。1949年1月、歴史言語研究所が台北に移ったのに伴い、傅斯年もそこへ移住、台湾大学の学長を兼任しました。

 傅斯年は政治面で蒋介石政権を擁護、中国共産党に反対し、また、学術面では、純客観的な科学研究を主張しています。

 1950年12月台北で、54歳で亡くなりました。

傅斯年(1896ー1950)は山東省聊城の生まれ。中国近代史上の歴史・言語学者及び考古学者です。

郁達夫ー中国近代的小説家、散文家、詩人

1921年、郭沫若らと共に「創造社」を創設し、1922年、帰国後、「創造季刊」、「創造週報」「創造日」「創造月刊」の編集に携わりました。また、八高時代の自分をモデルに異国に学ぶ孤独な青年の性の悶えと弱小民族の悲哀を描いた『沈淪』を1922年に出版し、問題作となりました。その後、安徽公立法政専門学校、北京大学、武昌師範大学、広州中山大学にて教鞭を執りました。北京では冷遇されたものの、魯迅と出合って影響を受け、1927年、創造社を脱退。1928年、魯迅と共に月刊誌「奔流」を編集、外国文学の紹介に力を注ぎました。1930年、中国自由大同盟の発足、成立にかかわり、また、一時は中国左翼作家同盟に参加。1933年には、中国民権保障同盟に参加、上海分会執行委員をつとめました。1938年には、武漢へ赴き抗日救亡活動に参加、軍事委員会政治部第三庁設計委員をつとめました。同年末、香港、南洋群島一帯へ渡り、抗日愛国宣伝活動に従事。シンガポール陥落ののちスマトラ島へ亡命。日本語に精通しているため、日本憲兵の通訳を務めさせられました。しかし、この時期多くの華僑を助けたため、後に、これが原因となり、日本憲兵によって逮捕され、1945年殺害されました。享年49歳でした。代表作は「沈淪」、『春風沈酔の夜』、『范々夜』、『還魂記』など。  

梁実秋ー中国近代的な文芸理論家、散文家、翻訳家

1923年、アメリカのハーバード大学に留学。1926年に帰国し、南京の東南大学で教鞭を執りました。そして翌年、上海で新聞「時事新報」文芸欄の編集に携わる傍ら、張禹九と共に雑誌「苦茶」を創刊しました。

 彼はロマンチシズムに憧れ、この面の詩作を数多く発表しました。ハーバード大学では新人文主義を提唱するバビッド教授の影響を強く受けました。代表的な論文は「現代中国文学のロマンチシズムの趨勢」です。この論文は1926年「晨報副鐫」で発表され、中国の新文学について「ロマンチシズムの混乱現象が起きており、理性に基づいて、また、普遍的な人間性から出発し、文学を作るべきだ」と主張しました。1930年、楊振声の招きに応じて、青島大学へ赴き、外国学部主任に就任。そして1934年、再び北京に戻り、北京大学の教授兼外語学部主任、1938年には国民参政会の参政員となりました。また重慶編訳館では翻訳委員会のほか、教科書編集委員会常務委員の仕事を担当するようになりました。1949年、台湾に移り、台湾師範大学英語学部の教授となりました。

 梁実秋は40歳を過ぎてから、主に翻訳や散文の創作に力を注ぎました。代表的な散文作品は「雅舎小品」です。また、1930年代から、シェイクスピア作品の翻訳を開始し、40年かけて、シェイクスピア全集の翻訳を完成させました。

朱自清ー中国近代の散文家、詩人、文学研究者

1925年、清華大学国語学部の教授となり、文学研究に携わる傍ら、散文の創作も本格的に始まりました。1928年、初めての散文集「背影」が出版されました。自らの目で見たことや心で感じたことが描かれ、その繊細さと素朴さで読者に多くの感動を与えました。特にその中の文章の一つ、「背影」は、家庭内に不幸な異変が起きたとき、その父親が駅のホームまで息子を見送る様子が見事に描かれており、散文の傑作として、数十年の間、国語の教科書に取り上げられてきました。

 1931年8月、イギリスに留学。言語学とイギリス文学を学びました。その後、欧州5ヶ国を訪問、1932年7月帰国して清華大学国語学部の学部長となりました。そして、1934年に、「欧遊雑記」、1943年に、「ロンドン雑記」を発表。いずれも印象的な手法で著したものでした。   

1948年8月病死。享年51歳でした。

 朱自清はその生涯で、二百万字あまり、30近くの作品を書き上げました。その大部分が開明書店出版の「朱自清文集」に収録されています。

抗日戦争勃発後、清華大学と共に南の長沙に移り、1938年3月、また昆明に移動、西南連合大学国語学部の部長を務めました。

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