老子を知る

皆さんこんにちは、「songyun.org中国語教室」というコーナーを始めました。このコーナーでは中国に関する知識や中国語の勉強方法などをご紹介いたしますので、このウェーブサイトを有効にご利用していただき、この中国語教室が皆様のお役にたちますように心より願っています。

私も日々日本語と英語を勉強していきたいと思っておりますので、今後とも、よろしくお願いいたします。

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中国の言い伝えによりますと、老子は紀元前6世紀の人物とされます。春秋時代に当たります。でも、あまりにも言い伝えが多くて、老子が実在の人物なのかどうかすら疑われています。老子は、神話上の人物という意見だったり、複数の歴史上の人物を合わせた人物だという説だったり、歴史専門家の意見も様々です。でも、「史記」を書いた中国一の歴史家、司馬遷が老子の伝記を書いています。と言うことは実在の人物として認めたわけですね。

 「史記」によりますと、老子は、姓は「李」、名は「耳」,字は「耼」。現在の河南省にあたる楚の国の出身です。周の国の書庫の管理者だったということです。書庫の管理者って、今風に考えると、国立図書館の館長みたいですよね。老子はある時、周の国勢が衰えるのを感じ、仕事をやめて牛の背に乗って西に向かいました。函谷関を通り過ぎる時、関守の尹喜(いんき)の求めに応じて、上下二巻の書を書き上げました。その書はもしかして、現在に伝わる「道徳経」なのです。老子のすべての思想を綴ったものです。その後、老子は関を出ました。その後の行方を知るものはいません。

 老子の思想は、現代に至るまで大きな影響を保ち続けています。私たちの生活のいろんな面に深く浸透しています。例えば、「足るの知るものは富む」~"知足者富"。「大器は晩成す」~ "大器晩成"。「千里の道も一歩から」~"千里之行、始于足下"。「天網(てんもう)恢恢(かいかい)、疎(そ)にして失わず」~"天網恢恢、疎爾不漏"。などなどたくさんあります。このように、私たちが日常に使うことば、しぐさ、ものの考え方など、あらゆる方面には、老子の思想が浸透しているわけです。また、太極拳や囲碁など、いずれも老子の知恵を生かしたものです。

老子とは

 では、老子はいったいどんな人物だったのでしょうか?道教の寺院では、老子が神格化された太上老君が必ず祭られていますが、老子の塑像を見ると、まずその大きな耳に目を奪われます。老子は耳がとても大きいと言われます。中国では昔、親が子供の特徴から子供の命名をすることが多かったんです。その名前の李耳というのも、もしかして体の特徴から来ているのでしょう。

 そして、老子の仕事については、前文ご紹介しましたが、周の国の図書館の館長をしていたんです。仕事の関係で、様々な書籍、書類、文化財などに接するチャンスがあります。普段付き合っている人も、レベルの高い知識人や官僚が多いと思われます。いろいろな条件に恵まれて、深い学問を生む出した哲学者になったというわけですね。

 周の国で国立図書館の館長をしていた老子ですが、周の国勢が衰えているのを感じました。去ろうと決めました。西へ行きたいと決めたので、函谷関という関を抜けなければなりません。その関を守っていた長官は、尹喜という人です。尹喜は学問豊かな人です。占星術などにも精通していると言われます。ある日、城門に立って東の方を眺めると、「紫気」めでたい雲気が東方から漂ってくるのを見ました。そういう雲気は聖人にしか見えませんから、聖人がまもなく通りかかると悟ったのです。そうすると、老子が牛に乗って悠々と来たんです。こんな聖なる人をこのまま行かせては行けない、どうしてもそのすばらしい知恵を残してもらいたいと、尹喜は心に決めたんです。老子はそのリクエストに答えて、自分の知恵を本に綴り、「道徳経」を書きました。数日間かかったと言われます。書き終わって、字を数えると、およそ5000字でした。偉大な著作、「道徳経」の誕生です。上下に分けられます。上は「道経」、下は「徳経」と言います。全部で81章からなっています。伝説によりますと、尹喜はこのすばらしい著作を読んだあと、すっかり魅了されました。老子に「ご高作を拝読させていただいて、もうこの関の長官をやる気が無くなりました。一生貴方のそばで従います」と話しました。

 老子は函谷関を過ぎた後、行方が分からなくなりましたが、言い伝えによりますと、非常に長生きしたということです。160歳まで生きていた説もありますし、200歳まで生きていた説もあります。

老子と孔子の面会

 ところで、春秋時代のもう一人の思想家と言いうと、儒教の始祖、孔子を思い出しますが、孔子は紀元前551年から紀元前479年まで生きていたわけですから、老子とほぼ同時代です。 

 「史記」によりますと、孔子は「礼」について、老子に教えてほしいと願ったことがあると書かれています。孔子は30歳を過ぎると、社会ではすでにある程度の影響力を持つようになりました。でも、孔子はとても謙虚でいろんな知識を学びたいと思っていました。当時、老子はとても有名です。で、孔子は老子を訪ねて、「礼」のことについて教えてもらうことにしました。孔子は魯の国(現在の山東省曲埠あたり)から、周の洛陽に向かいました。

 言い伝えによりますと、孔子が着いた時、目の前にいた老子は、髪の毛を洗ったばかりで、その髪の毛を干しているところでした。古代中国では、髪の毛を含め、親からもらった自分の体を大切にし、傷つけないことが、親孝行の一つと考えられていました。ですから、男性でも女性でもみんな髪が長くて、髪干すのも面倒なことでした。孔子は目の前の光景にびっくりしました。老子は長い長い髪の毛を伸ばして、風に当たってじっと立っています。

 老子は、両目は半分つむっていて、笑顔のような、そうでもないような表情で、寝ているような、そうでもないような感じです。木の葉が落ちても、風に吹かれても、体も表情も動かない、まるで枯れた木のように佇んでいます。こんな髪の毛の干し方を見て、さすがの孔子も呆気にとられました。

 孔子は素直に訪ねました。「先生、本当に自分の目がぼやけて見間違ったとは思いました。けれど、先生はさっきまるで枯れ木と同じように、あらゆる物を超越したような気がします。」すると、老子は微笑み、深い哲学思想を語りました。髪の毛を干す時間に物静かで、虚無で、深い世界に入りました。目の前の俗世間から抜け出し、タイムトンネルに入り、万物が本来始まるところ、宇宙を成り立たせている根本原理である「道」に戻ったと話しました。

 老子と面会して、家に帰った孔子は数日間何も言わなかったそうです。「老子は竜のようだ」と弟子たちに語ったというエピソードを史記に司馬遷が書き残しています。かなり敬服しているようですね。弟子たちはその意味が分からなくて聞き返しますと、孔子はこう答えました。「鳥は飛び、魚は泳ぎ、獣は走る。それは私もよく知っている。そして走るものは網で捕らえ、泳ぐものは糸で釣り、飛ぶものは糸をつけた矢で射落とすことができる。しかし竜は、風雲に乗って天にあがるというが、私にはわからない。老子も竜のような人だった」。これは結構奥の深いコメントですよね。

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