30年代は詩歌の創作に従事し、新月派のメンバーの一人として活躍しました。彼女が作った詩「笑」、「深夜聞こえる音楽」、「ある夏の夜、山で」、「なくしてはならぬ」などは、緻密な描写、韻律の重視、音楽性に富んだ作風などが特徴です。短編小説「九十九度中」は、真夏の酷暑のなかで繰り広げられる北平(今の北京)での上流社会と下層の労働者の全く異なった生活を描きました。その対比が非常に鮮明で、かつ新しい手法が高い評価を受けました。
当時、北京東城総布胡同に住んでいた頃の彼女の家の応接間は"太太サロン"と呼ばれていました。当時の文壇の朱光潜、梁宗岱、金岳霖、沈従文、蕭乾などの有名人がここに集まり、お茶とお菓子などで、文学を談じ、芸術を論じ、古今東西の四方山話に花を咲かせていました。 そして"太太サロン"の主役はやはり林徽因でした。
新中国成立後、彼女は清華大学建築系の教授となりました。1949年以降、林徽因は中国国章のデザインや伝統的な七宝焼き模様の改革、それに、天安門広場にある人民英雄記念碑の設計にも参与しました。1955年病気で亡くなり、51歳でした。