宋慶齢記念館

皆さんこんにちは、「songyun.org中国語教室」というコーナーを始めました。このコーナーでは中国に関する知識や中国語の勉強方法などをご紹介いたしますので、このウェーブサイトを有効にご利用していただき、この中国語教室が皆様のお役にたちますように心より願っています。

私も日々日本語と英語を勉強していきたいと思っておりますので、今後とも、よろしくお願いいたします。

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中国民主の父と慕われる孫文の夫人が宋慶齢です。夫人が1981年に亡くなるまでの住まいが、「宋慶齢故居」として、記念館になっています。場所は北京の后海、その北岸に故居はあります。もとはといえば、溥儀の父親にあたる清朝の宣統帝の住まいだっただけに、敷地は広く、庭あり、池あり、休息所ありとゆったりと作られています。

 この中にある二階建ての主楼と呼ばれる建物が、宋慶齢の仕事の場であり、生活の場でした。事務室、来客をもてなす大広間、食堂、寝室などがそのまま残され、ゆかりの品々が展示されています。宋慶齢は1893年上海生まれ。1915年に日本で活動中だった孫文と結婚します。このときの結婚誓約書がありました。保証人は日本の友人でした。

 三民主義を唱えた孫文は1925年に北京で亡くなりましたが、その遺志を継ぎ、民族団結と抗日、反ファシストを訴え続けました。いま、ここには1万2000点近くが収められています。宋慶齢がここに住むようになったいきさつについて、宋慶齢基金会の何大章副主任が語ってくれました。

 宋慶齢がここに住んだのは、1963年4月から1981年5月までです。上海にいた宋慶齢に、北京に来て一緒に仕事をしようと誘い続けたのは毛沢東と周恩来です。このときの二人の直筆の手紙が残されています。達筆でよく読めませんが、毛沢東の手紙には「国の建設について話し合いたい」といった意味のことが書かれています。

 その期待にこたえ、中央政府副主席として、国際交流にも貢献しました。外国訪問や要人との会見も数多くこなし、歴史に残る写真がいっぱいあります。

 ベトナム建国の父、当時のホーチミン大統領を迎えたときは、北京の暑い盛り、8月。ガラス製の魚が飾られていたので、これは何ですか、と聞いたら、少しでも涼しくなるようにと氷を入れてテーブルの上に置いたそうです。これまた珍しいものに出会えました。

 宋慶齢は死後、名誉国家主席の称号を与えられました。そして、この住まいを記念館とすることを提案したのは周恩来です。宋慶齢基金会というのも設けられました。活動の目標は世界の平和と祖国統一、青少年の育成。会の名誉主席を買って出たのはトウ小平でした。

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