秦の始皇帝陵と兵馬俑(三)

皆さんこんにちは、「songyun.org中国語教室」というコーナーを始めました。このコーナーでは中国に関する知識や中国語の勉強方法などをご紹介いたしますので、このウェーブサイトを有効にご利用していただき、この中国語教室が皆様のお役にたちますように心より願っています。

私も日々日本語と英語を勉強していきたいと思っておりますので、今後とも、よろしくお願いいたします。

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秦の始皇帝は生前中国を統一した偉大な皇帝です。死後にも、生前に持っていた物をすべて地下に持ち込み、これまでにない豪華な陵墓を建てました。60平方キロに及ぶ始皇帝の冥土は、始皇帝がいた都ー咸陽を真似して作られたのですが、内の城壁、内城と外の城壁、外城もあり、域内にはたくさんの副葬坑があります。これまで、本当の意味の考古発掘は行われていませんけど、実験的な探測によって、すでに大きな発見がありました。

 兵馬俑は地下におよそ2000体ぐらい埋葬されたあと、前世紀の1974年にやっと発見されたそうです。実は「やっと発見した」という言い方は正しくないかもしれません。昔もきっと発見したことがあったのでしょうが、ただ発掘をしなかったといったほうが正しいでしょう。兵馬俑を発掘した際に、漢の時代から近世までの貴族や庶民のお墓も、その範囲内に見つかったそうですので、きっと昔にも兵馬俑を掘り出した人がいるかもしれません。

 とにかく、膨大な兵馬俑の軍団は大きな破壊にあうことなく、そのまま、1974年まで保存されてきたのです。1974年3月に地元の農民が井戸を掘った時、偶然にいくつかの陶俑の破片が目に入りましたが、それがなんなのかは分からなかったそうです。それで、すぐに地元の関係部門に報告したそうです。これをきっかけに、その後、考古学者が一年間余りかけて実地調査や試掘をした結果、そこに大きな兵馬俑の坑井があることを確認しました。

 今、私たちが兵馬俑博物館に入ると、全部で三箇所が見学できます。一号館、二号館と三号館。この1974年に発見されたのは、1号兵馬俑坑です。この1号兵馬俑坑が発見された後、考古学者は引き続きその周辺で実地調査を行いましたが、1976年4月に1号俑坑に近い東北部分、また2号兵馬俑坑が発見されました。これに引き続き、1976年5月にさらに、1号俑坑の西北方向に3号兵馬俑坑を発見しました。さらに、1976年の夏、埋葬された当時に、まだ完成されていなかった4号坑も発見されました。その内部には何の遺物もなかったのです。なんでも、秦の末期、農民蜂起があったため、工事中の4号兵馬俑坑はやむを得ず中止になったそうです。それから、秦は急速に衰え、秦二世は結局父親の陵墓工事を続ける力もなかったそうです。

 1号兵馬俑坑は三分の一ぐらい発掘しましたが、これまで、あわせて1087体の陶製俑を復元しました。さらにその密度から推計しますと、おそらく1号坑には6000体を超える俑があるはずです。2号坑もその密度から推計して、およそ1300体ぐらいの俑があります。また、3号坑は面積が小さいため、すべて発掘しましたが、38体の陶製俑が出土しました。ですから、三つの兵馬俑坑には合わせておよそ8000体ぐらいがあると推測されています。

 中国古代の軍隊編成によって、1号坑は右軍、2号坑は左軍、完成されていなかった4号坑は中軍、そして、3号坑は指揮部、というように軍隊が形付けられました。これによって、秦始皇生前に都を守衛した軍隊を再現したのです。

 資料によりますと、当時、工事をしたとき、まずは、地下約5メートルに、大きな穴を掘って、穴の中に並行に隔離壁を建てます。その壁の両側にぎっしりと木の柱が並んでいるほか、壁の上のほうにも横木が置かれています。その横木の上には、さらに、筵(むしろ)をかぶせています。穴の底にレンガが敷いてあります。最後に、兵馬俑を入れてから、通路を封鎖して、これで完成です。

 今、私たちが見たのは、上にあった土を掘り出したあとの風景です。兵馬俑坑周りの通路を歩くと、まさに、古代の軍隊を眺めているような感じがします。

 兵馬俑博物館は1979年10月に設立され、発掘しながら開放という形で一般に公開されています。ですから、訪れる人の目には膨大な兵馬俑軍団が見えるだけでなく、考古発掘の作業風景も垣間見られます。

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