破鏡重円

皆さんこんにちは、「songyun.org中国語教室」というコーナーを始めました。このコーナーでは中国に関する知識や中国語の勉強方法などをご紹介いたしますので、このウェーブサイトを有効にご利用していただき、この中国語教室が皆様のお役にたちますように心より願っています。

私も日々日本語と英語を勉強していきたいと思っておりますので、今後とも、よろしくお願いいたします。

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四字成語"破鏡重円"(はきょうじゅうえん)は、引き裂かれた夫婦が再び結ばれることを意味します。

 中国の南北朝時代、陳の国の皇女、楽昌皇女が、才能豊かで名が知られる徐徳言と結婚しました。夫婦二人、とても睦まじく暮らしていました。

 やがて、陳の国は衰退し、北朝の隋によって滅ぼされるのが明らかになってきます。戦乱によって、離れ離れになることを案じた皇女は、毎日お化粧の時に使う銅製の鏡を割って、片方を夫に渡し、もう片方を自分が持つことにし、約束しました。毎年の旧暦1月15日、即ち、元宵節の日に、隋の都であった長安、つまり現在の西安の町で、鏡を売りだすふりをし、鏡を互いの再会の証として、相手と再会するまで探していくと。

 まもなく陳は隋によって滅ぼされ、皇女は隋の大臣、楊素の側室となりました。翌年の1月15日、徐徳言ははるばる長安に駆けつけました。市場では片方の鏡を高値で売っている年老いた下僕がいました。徐徳言は懐から自分が持っていた半分の鏡を出して、それに合わせると、確かにぴったり合うのです。

 しかし、探していた妻はいません。すると、徐徳言はその場で詩を書きました。「鏡は人と共に去り、鏡は帰ったものの人は帰らない。鏡にはもう皇女の姿が写らず、ただ空しく月の光が残っている。」

 楽昌皇女は下僕に持ち帰られた詩を読むと、水も食事も喉を通らずに、ただただ悲しく泣き続けました。皇女の今の夫、楊素はこのことを聞き、大変感動し、徐徳言を召しだし、二人を面会させ、更に、南方に戻らせました。

物語の歴史的背景をご紹介しましょう。時は6世紀の終わりごろです。中国は南北朝時代の末期にあります。南北朝とは、439年から、589年にかけて、中国の南と北に、王朝が並立していた時期を指します。

 主人公の楽昌皇女は南朝、陳の国の皇女でした。皇女の兄は、582年に即位した陳叔宝です。もともと、陳は建国時点から、国内外にいろんな問題が存在していました。しかし、陳の最後の皇帝となった陳叔宝は、女にだらしなく、政治を顧みず、北朝の隋に征服されるのはただ時間の問題でした。

 結局、隋が中国を統一しました。幸せな結婚に恵まれ、夫と仲良く過ごしていた楽昌皇女ですが、やはり国が滅びると共に、運命に翻弄されてしまいました。皇族の一員として、動乱の真っ只中に、そんなにたやすく過ごすわけにはいきません。

588年10月、隋の文帝は、中国の統一を目指し、次男の楊広を総大将として、総勢51万8000人の軍を送り込み、翌年の589年に、陳の都である建康(現在の南京)を陥落させ、陳の皇帝を捕らえて、陳を滅ぼしました。

 楽昌皇女も捕虜となり、まるで戦利品のように、隋の大臣、楊素に所有されるようになりました。昔の中国では、国を失った貴族の女性は、たいてい戦利品として、新政権の王や部下に配られることになります。

 女性がモノみたいで、寂しいですね。でも、こういう時代背景だから楽昌皇女は国が滅びる直前に、自分の将来の運命を察知し、夫、徐徳言と割った鏡を再会の証として、毎年の決まった日に、死ぬまで相手を探すと約束したのですね。

 二人の愛には、そのような歴史的背景があるからこそ、やむをえない離別に家や国を失った恨みが加わり、一層忘れられない濃いものになったんではないかと思います。そんな歴史的背景がなければ、徐徳言と楽昌皇女は、世間のごく普通の夫婦と同じように、時間が経つと共に、喧嘩したり、些細なことで揉めたりして、あれほど燃えることがないでしょう。

 この「破鏡重円」の物語が、1500年ぐらい経っても伝えられるのは、夫婦復縁の難しさによるものだと思います。「破鏡重円」より、むしろ、「破鏡難円」割れた鏡を修復できない。一旦離縁した夫婦は仲直りが難しい。というのが、普通でしょう。

 「破鏡難円」、「破鏡重円」から派生された言葉ですが、逆にこっちのほうが、事例が多くて、よく使われているようですね。

 そもそも、「破鏡重円」は普通の夫婦の離縁とまったく違いますからね。皇女と夫の場合は、本人たちの気持ちではない外的な要素で分かれたので、かえって夫婦仲が良くなったのかもしれません。それと違って、普通の夫婦離縁は、色々意見の食い違いがあるので、分かれてしまった。鏡に例えると、もうひびが入ったので、また戻しても、そのひびは完璧に修復できないということですかね。

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