博物館巡りーー北京宣南文化博物館

皆さんこんにちは、「songyun.org中国語教室」というコーナーを始めました。このコーナーでは中国に関する知識や中国語の勉強方法などをご紹介いたしますので、このウェーブサイトを有効にご利用していただき、この中国語教室が皆様のお役にたちますように心より願っています。

私も日々日本語と英語を勉強していきたいと思っておりますので、今後とも、よろしくお願いいたします。

スポンサー

北京の中心部に入るには、いくつかの門をくぐらねばなりませんでした。東直門、西直門など多くの門は、いま、地下鉄2号線の駅名となって、その名残りを留めています。地下鉄2号線は、北京駅から時計回りで行けば、前門、復興門、雍和宮などを回って戻ってくる環状線です。乗り間違いの心配はないので、北京観光の折には、ぜひ試してみるといいでしょう。

 さて、その宣武門のあった南の地域は、宣南と呼ばれ、古くから文化人や学者、そして京劇の俳優が住み、また商業の中心としても栄えました。故宮の一帯が皇帝やお役人の世界だったとすれば、宣南は庶民文化が花開いたところでもあったのです。

 その歴史が一目で分かるところが、北京宣南文化博物館です。もともとは、長椿寺というお寺でした。

 お寺ができたのは1592年、明の時代です。時の皇帝は、長寿と健康を祈って、「長椿寺」という名前を贈ったそうです。そういえば、椿はなかなか枯れることがなく、いつまでも青々としていて、日本でも長生きのシンボルになっています。回族がたくさん住む牛街に通じる道は長椿街ですが、この名前もお寺から来ています。

 お寺は長続きせず、清代の中期にはさびれ、その後は民間人の住まいとして使われてきました。しかし、宣武区政府が文化財保護に乗り出し、2002年から2億元をかけて改修し、2006年に博物館としてよみがえらせたのです。

 博物館は8つの展示室からなっています。宣南に居を定めた清代の学者66人を紹介するコーナーでは、一人一人の業績が詳しく紹介されています。毛沢東主席の国語の教師役で、いまのピンインを考え出した黎錦熙さんも、この宣南の住人でした。

 清の時代に始まった京劇も宣南が拠点でした。最盛時には学校が10、劇場は23を数えたそうです。北京の新聞もここで誕生しました。「万国公報」が創刊されたのは1895年で、これは複製版しか残っていませんが、多くの珍しい新聞が保存されています。

 庶民の暮らしぶりも分かります。レストラン、デパートもこの宣南で生まれました。今に残る。老舗の漬物店「六必居」やお茶の「張一元」、漢方の「同仁堂」の看板も見ることができます。

 瓦を割ったり、頭で石を突いたりした大道芸人の姿も楽しめます。旅行ガイドブックには見つけられない小さな博物館ですが、解放前の北京を知るにはうってつけの場所と言えそうです。

スポンサー