韓信の股くぐり

皆さんこんにちは、「songyun.org中国語教室」というコーナーを始めました。このコーナーでは中国に関する知識や中国語の勉強方法などをご紹介いたしますので、このウェーブサイトを有効にご利用していただき、この中国語教室が皆様のお役にたちますように心より願っています。

私も日々日本語と英語を勉強していきたいと思っておりますので、今後とも、よろしくお願いいたします。

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    紀元前2世紀の秦王朝は、中国史上初めて統一を成し遂げた封建王朝で、中国の万里の長城はこの時代に造られた。しかし、親子二代の皇帝の暴政により、秦の支配はわずか15年で終わってしまうのだ。秦の末期、各地で農民蜂起が起こり、多くの英雄が現れたが、韓信は中でも名を馳せた軍事的統帥であった。

    韓信は中国古代の著名な武将だが、彼は生まれは貧しく、幼いときに両親を失った。韓信はのちに軍事上で大きな手柄を立てる前は、商いもできず、農民もいやだったことから、貧しく見下げられる暮らしをおくり、いつも腹をすかしていた。ある日、彼は地元の小役人と知り合いになり、この小役人の家へ行っては飯を食わしてもらっていたが、韓信に反感を抱いていた小役人の妻が、食事の時間を繰り上げ、韓信が飯を食いにいったときには、飯はなくなったいたことから、怒った韓信は、この小役人と絶交してしまった。

    そして韓信は空腹を満たすため、地元を流れる淮水という河で魚を釣っていたが、洗濯物をしていたある婆さんが、彼は腹をすかしていると知って、持参してきた弁当を彼に食わせ、このようなことが数日続いた。韓信は非常に感動して婆さんに「いつかはこの恩をちゃんと返しますからね」といった。ところが婆さんはこれを聞いて怒り出した。「あんたは男なのに自分すら養えないから、こうしてあんたに飯をあげたんだよ。始めから恩を返してもらうなんて考えてないよ」。これには韓信、顔を真っ赤にし、きっと出世して見せると心に誓った。

    韓信のふるさと淮陰には、彼を馬鹿にする若者たちがいた。ある日、一人の若者は体が大きい上に剣まで提げている韓信は実は臆病者だと思って、賑やかなところで彼の前に立ちはだかった。「お前に勇気があったら、この俺を切ってみな!臆病者なのなら、俺の股をくぐれ」という。これを見た人々は、この若者が韓信に恥をかかせようと企んでいることを知り、当の韓信がどうするかを見物していた。こちら韓信、しばらく考えていたが、やがて黙ってその若者の股の下をくぐったので、周りは「こいつは臆病者だ!」と彼を嘲り笑った。これがのちに伝わった「韓信の股くぐり」である。

    実は韓信ははかりごとに非常に長けた人物だった。当時は時勢が変わるときだと見て取った韓信は、いつかは出世する道が開けると確信し、兵法を学び、武芸の修練に励み続けた。紀元前209年、各地では秦王朝に反抗する農民蜂起が起こり、韓信はそのうちかなりの勢力を持つ蜂起軍に加わった。この蜂起軍の首領は、漢王朝の建国皇帝劉邦だったのだ。ところで韓信、初めのころは食糧と飼料を運ぶ係りを命じられ、志を得られず、毎日くさっていたが、のちに劉邦の策士である蕭何を知り、いつも時勢や兵法を論じていたので、蕭何はこの韓信が非常に才能のある人物であることを悟り、劉邦に彼を極力推薦したが、当の劉邦は韓信を重用しようとはしなかった。

    と、ある日のこと、ここでは出世できないとあきらめた韓信は黙って劉邦の蜂起軍を離れ、他の蜂起軍を頼って行ったが、これを知った蕭何は、韓信を連れ戻すことを劉邦に告げず、馬に乗って韓信の後を追った。劉邦はこのことを知り、二人は逃げた思ったが、数日後に蕭何が韓信をつれて戻ってきたので大喜び。「蕭何や、どうしたのじゃ?」と劉邦は聞くと、蕭何は「あなた様のために人を追うかけていったのですよ」と答える。「これまで逃げ出した武将は数十人もいたが、その方、韓信だけを連れ戻したのはどうしてじゃ?」「これまで逃げ出したは、そこらにいるつまらん人物ばかりでしたが、韓信は得がたい奇才ですぞ。天下をお取りになさるには、韓信以外に頼れるものはおらんでしょう」。自分が信じきっている蕭何がこういうものだから、劉邦は「では、そちの下で武将をやらせよ」というと蕭何は「只の武将だけでは、韓信はここには残りますまい」と勧める。そこで劉邦は、「では、奴を大将軍にしよう」ということになり、韓信はこのときから、元の食糧飼料運びから一躍大将軍となり、その後は劉邦が天下を取る過程で、勝ち戦を続け、輝かしい手柄を立てたのである。

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