林徽因ー中国近代史上の女流詩人、小説家、建築家

皆さんこんにちは、「songyun.org中国語教室」というコーナーを始めました。このコーナーでは中国に関する知識や中国語の勉強方法などをご紹介いたしますので、このウェーブサイトを有効にご利用していただき、この中国語教室が皆様のお役にたちますように心より願っています。

私も日々日本語と英語を勉強していきたいと思っておりますので、今後とも、よろしくお願いいたします。

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30年代は詩歌の創作に従事し、新月派のメンバーの一人として活躍しました。彼女が作った詩「笑」、「深夜聞こえる音楽」、「ある夏の夜、山で」、「なくしてはならぬ」などは、緻密な描写、韻律の重視、音楽性に富んだ作風などが特徴です。短編小説「九十九度中」は、真夏の酷暑のなかで繰り広げられる北平(今の北京)での上流社会と下層の労働者の全く異なった生活を描きました。その対比が非常に鮮明で、かつ新しい手法が高い評価を受けました。

当時、北京東城総布胡同に住んでいた頃の彼女の家の応接間は"太太サロン"と呼ばれていました。当時の文壇の朱光潜、梁宗岱、金岳霖、沈従文、蕭乾などの有名人がここに集まり、お茶とお菓子などで、文学を談じ、芸術を論じ、古今東西の四方山話に花を咲かせていました。 そして"太太サロン"の主役はやはり林徽因でした。

新中国成立後、彼女は清華大学建築系の教授となりました。1949年以降、林徽因は中国国章のデザインや伝統的な七宝焼き模様の改革、それに、天安門広場にある人民英雄記念碑の設計にも参与しました。1955年病気で亡くなり、51歳でした。

林徽因(1904ー1955)は中国近代史上の女流詩人、小説家、建築家です。1904年に福建省ミン候の官僚の家庭に生まれました。父、林長民は青年時代、日本に留学したことがあります。1916年、北京の培華女子中学校に入学しました。1919年父親に従って英国へ渡り、1920年には父親と共に、ロンドンやパリ、ジュネーブ、ローマ、ベルリン、ブリュッセルなどヨーロッパを歴訪しました。

1923年より米国へ留学。ペンシルバニア大学で建築学を学び、その後エール大学戯劇学院で舞台美術を学びました。1928年カナダで梁啓超の息子・梁思成と結婚しました。帰国後、文芸雑誌『緑』の創刊に参加し、1930年以後、東北大学、燕京大学などで教鞭を執りました。 

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