『史記・項羽本紀』

皆さんこんにちは、「songyun.org中国語教室」というコーナーを始めました。このコーナーでは中国に関する知識や中国語の勉強方法などをご紹介いたしますので、このウェーブサイトを有効にご利用していただき、この中国語教室が皆様のお役にたちますように心より願っています。

私も日々日本語と英語を勉強していきたいと思っておりますので、今後とも、よろしくお願いいたします。

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項羽の伝記は何故帝王の伝記を記す「本紀」に組み入れられたのか?

 「本紀」は「列伝」と同様、「史記」の中で、最も重要な構成部分の一つです。12巻からなっています。司馬遷は「史記」で、伝説の黄帝から、漢の武帝まで、およそ3000年の歴史を記しました。

 項羽が帝王ではないのに、その伝記は司馬遷に帝王の枠に入れられました。「本紀」の例外とでも言えます。実は、このような例外は、わずか12巻しかない「本紀」の中に、もう一巻あります。それは、「史記」の中で、唯一女性のために書いた伝記です。主人公は、漢高祖・劉邦の妻、呂太後です。と言うことは、覇権の争いに敗れた項羽でも、劉邦の妻、呂太後でも、皇帝ではないですけれど、皇帝と同じような大きな影響力があるということで、司馬遷は後世の人々、この私たちに伝えたいと思ったと言うことでしょうか?

 司馬遷はその理由について、文字ではっきりと説明したことがありません。でも、きっとそうだと、私も思います。司馬遷は人物の伝記を書くときに、ただ淡々と史実を並べるという歴史を記載するルールのようなものにとらわれず、歴史の事実に対する自分の理解を大切にして書きました。客観的な事実の叙述に、司馬遷の見方があり、その人物に対する態度が垣間見られます。例えば、項羽は、最終的に失敗した、悲劇的なヒーローですが、司馬遷は非常に大きな情熱を持って、この悲劇的ヒーローの話を書き上げました。それによって、今の私たちが、歴史から教訓を汲み取ることができる訳ですね。

 * 項羽の生い立ち

 項籍は、下相(今の江蘇省宿遷市近郊)の出身で、字が羽。秦の統治に反対し挙兵したのは、24歳の時だった。叔父は項梁といい、祖父はかつて楚の国の武将、項燕で、秦の有名な将軍、王翦に殺された人である。項氏は楚の武官の家柄を数世代にわたって守り、項という土地に封ぜられていたので、土地の名を苗字とした。

 この第一段落から、項羽の生い立ちの一部の情報が分かりますね。項羽は楚の将軍だった項燕の孫です。項燕は戦国時代末期の有名な人物です。項氏は代々楚の将軍を務めた家柄でした。

 項羽は両親を早く亡くしたため、叔父の項梁に育てられていました。だから、項羽の親のことについて、司馬遷は一切記録せずに、叔父のことを書きました。項羽の成長には叔父さんの影響力が大きかったでしょうね。

 * 不器用だった青少年時代の項羽

 項籍が小さい頃、読み書きがうまくできないのであきらめた。剣術を習ったが、大成できなかった。叔父の項梁はとても怒った。項籍は「読み書きは人の名前ぐらい書けるなら十分だ。剣術は一人としか対戦できなので、学ぶ甲斐がない。俺は幾千万人の軍隊しか対抗できない本領、即ち、兵法を勉強したんだ」と答えた。すると、叔父の項梁は項籍に軍事の知識を伝授した。項籍は喜んで勉強したが、兵法の内容を大体把握したら、今度はまた中途半端にあきらめた。

 項羽は普通の人として勉強すべき知識、例えば、読み書きや武術などは勉強したくないんですが、幾千万人の軍隊と対戦できる軍事学・兵学は勉強したいと言っています。勉強しても、マスターできないので、決して頭のいい人とは言えない、不器用な人がと思いますね。そして、最後まで頑張ることができず、中途半端にあきらめたりして、まあ、志が大きいですが、大した才能がないと言えましょうか。司馬遷の淡々とした叙述から、項羽の姿がいきいきと、読者の私たちに伝わってきますね。

 「史記・項羽本紀」では、次のような史実が書かれています。この部分について、司馬遷の原文ではなく、ちょっとまとめたものをご紹介しますね。

 叔父の項梁は人を殺して仇を避けるため、項籍と一緒に呉へ亡命しました。呉では地元の上層社会の人々と付き合う中で、叔父の項梁の才能が認められ、首領のような立場となった。項梁は兵学を運用し、知り合いや地元の青年の能力を調べた。

 秦の始皇帝が各地を視察し、浙江(今の銭塘江)を渡った時、項梁と項籍が一緒に見物に行った。始皇帝を見て、項籍は「この俺が必ず取って代わるぞ!」と言った。叔父の項梁は「馬鹿なことを言うな。一族皆殺されるぞ。」と慌てて項籍の口を塞いだ。しかし、項梁はひそかに甥の項籍が抜きん出た人物だと見ていた。やがて、項籍は身長八尺あまり(現在の180センチ以上)の長身となり、重い鼎を挙げられるほど迫力のある男になった。地元の若者は皆項籍を怖がった。

 叔父の項梁も、甥の項羽も、二人ともみんないい男ですね。項羽が「垓下の歌」で歌ったように、「力拔山兮氣蓋世  力山を拔き 氣は世を蓋ふ(おおう)」。俺の力は大きく、山を抜くことができる。俺の気概は天下を抑えていた。素敵な男性に成長してきました。

 項羽が秦の始皇帝を見た時の感想がすごいですね。「必ず取って代わってやる」!赤裸々に野心を吐露していますね。項羽のこの言葉だけ聴いていると、すごいと思いますが、劉邦とくらべてみますと、やはり劉邦のほうが、ずっと用心深くて、大人だなぁと思います。

 劉邦は今の陝西省の咸陽で秦の始皇帝を見たことがあります。始皇帝の威風堂々としたパレードを見て、「これこそ一人前の男の姿だ」と語りました。始皇帝を羨む気持ちがあるほか、その裏には、「これこそ一人前の男の姿で、私もそうなりたい」と、項羽に劣らない野望が読みとれますね。しかし、項羽の発言のような、ストレートさ、危なさがなくて、これはまた、すばらしいです。

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